circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

世界の半分とそれからわたし

鬱を抜けかけるときに見た、あの公園の明るさのことを、あの不透明な矢鱈とした眩しさのことを、



私には正確に数えて二回、生まれてよかったと思った瞬間があった。それだけで、もういいのだと思う。しかも、それが、私の人生にとって決定的でも何でもない、とてもささやかな会話の時間だったこと、何を話したかすら、一つのほうは覚えていない。



もう一度ロンドンへ戻る前に、通うコースの面談に先生に会いに行った、私は「立原道造が好きなんです」と言い、先生は「それでもう十分。合格」と行ったあとで、ぼんやりとラッセルスクエアを見ていた、噴水が光の中に、木の緑は向こうまで曖昧だった。



ブラジルのひととイタリアの人と三人で、ベジタリアンのお店(food for thoughtと言った、コヴェントガーデンの)に行くのが好きだった、そこで何を話したか全く覚えていないのだけれど、これは、なんて幸せなんだろう、と思ったこと



もう一つは、やっぱりロンドンのどこか忘れた、たぶんジャパセンで働いていた子のかえりに会いに行って、夜ご飯を食べた、ロンドンにいる間にわたしは以上に惚れっぽい体質になっており、いろんな人に惚れては凹むということをしていたけれど、わたしは彼女に惚れていたのではなかったと思う(なにか、わたしにとって重要な人のことを、惚れっぽいわたしはどうも惚れないようにできているみたいだ)。たしか、ジャパセンの近くの日本食レストランで、日本人のわれわれは英語でずっと話していた、わたしはなぜか、ずっと「マザー、サン」がいかにいい映画かをずっと話していて、話しながら泣いてしまい、泣き終わったころにはつきものがおちたかのように幸せだった。赤いお店で、赤いいろいろがぶらさがってて、かわいかった。彼女はずっとやわらかく、うんうんと聞いてくれた。今彼女と話しても、わりと議論ぽくなるのだけれど、その時は何だろう、わたしがやっぱり病気の抜け目だったし、何かしら、海外にともに長くいる日本人というのは、後ろ暗いところでつながれるところがあり、彼女の病(でもなんでもなかったのだけれど)が、いい形で共鳴していたのだろうと思う。その時に赤い店内が虹色の世界になっていたことを、わたしは忘れないでいようと思う。