circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

くえるかくえないかという問題とは別に、そこへ向かって一度でも足掻いたかという、未完の行為という言葉がある。私は、やり遂げないまま未完の行為を積み残し続けている。私自身のやりたいことや、家族にたいしてや、、、それをどうするかという問題。食えないまま足掻きながら死んだ人もいるし、諦めた人もいるかもしれないが、いちど足掻いたからことに意味はあるだろう。最初から、食えないということと、自分以外誰も応援してくれない、トリガを引いてくれないモチベーションを、一体世間体をきにするあなたが、なぜ保つことができたというか。食うというのは一つの必然で、仕方がない。しかし、だれも求めないところに未完の行為はありがちなのではないかという気がする。

最初はレベルが低いから、誰もあなたを需要しないだろう。需要に対する供給というのは承認である。しかしいまわたしが話しているのは、たぶん承認のことではない。承認は本質的に他者から与えられる。いま私が話しているのは愛のことであり、衝動のことだ。誰もやっていない、私しかできない、と心の底では思いながら、それはかいかぶりなのではないか、だってあなた、なにもやってないもの。そしてやり始めると、かいかぶりであったことはすぐにわかる気がするかもしれない。しかし、やりたいことの芽はすぐには発芽はしないだろう。何年だろう?何年かは区切る必要がおそらくはある。自分にしかできないやり方がある、と思っているいくつかの穴を掘る必要がある。そこには二つ問題がある。一つは需要、承認が人生の区間の中では得られないかもしれないこと。もう一つ、より重要なのは、掘っても掘っても金脈に辿り着かないこと。発芽しないこと、思っていた独自性がハリボテに過ぎないかもしれないのと。その判明を恐れてたいていチャレンジしないのだ、その判明こそが最大の恐怖なのだ、しかし、それはすぐに発芽するものなのか?やはり期間を決めてやってみることから、かりに自分の独自性がその穴の真ん中にないと腹落ちしたとしても、腹落ちしなかったしても、代替となる独自性がその穴の枝分かれに見つかるかもしれない、そちらへ掘ることが可能になるかもしれない。失敗の隣に何かがあるかもしれない。思い描いた目標は変わっていくかもしれない。キラキラした目標ではない渋い目標が生き残れるところかもしれないし、やりたいことかもしれない。