circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

風立ちぬのことを、ぐるぐる考えてしまうのは、わたしが、堀や立原に対して、肺病やみ型の男性のあり方というのが、当時ギリギリの男性制度へのきわっきわであったにちがいないとおもうからです。堀は戦時中にサナトリウム文学をかくという、中性的抵抗とでもいうべき、それですし、わたしもそうありたい。立原の乙女ぶりは回転してとても彼らしいもの、彼女ラシカラヌ感じがします。少年性?選べる、という日経のコラムには、度肝を抜かれた日でした!だって、春秋だぜ?天声人語じゃないんだぜ?


風立ちぬ、は、やっぱり合成した主人公が、つまり兵器をつくる技術者と、不治の病を持つ新妻を持つ若者、の合成が、運悪くディック・ファインマンという実在の一人にかち合ってしまったところに、想像力の限界を露呈してしまっており、人間の心理は単純ではない、泣きながら笑って、悲しいのに論理を考える、そんな風なファインマン夫妻最後の日々(かつ原爆の幕開け)と比べると、あまりに浅い、悲しいほどに浅かった、キスの件も、ドタバタ結婚の件も、妹の件も、ファインマンの物語に重なっては、つぎつぎ敗北して行く、それは、比べるのが間違いだとか、両方いいとかいう問題ではなく、人間ならこのときなにを感じるかという機微についての洞察が、実際に行われたものと、想像で行われたものの深さの差だ、と言えればまだ良い、本当は、何も洞察されていないから問題なのだと思う。


紙飛行機を二階とやり取りするシーンは、美しくなかったけれど、その前の、病気の彼女の窓を見て、灯りがついている、というシーンは綺麗なものだと思って高揚した。会えないほうがいい。電気がついてある、あの人がそこにいる、それだけでよかったのに。あのまま、死んでしまえば、二百点なのに。


あるいは、ずっと部屋を見上げていて、心を一瞬通じたと思ったのに、毎日見上げていることに気づいた父親が、娘に悪い情報を吹き込み、なんとかもう一度会おうと部屋までいくと父親がでてきて、きみ、ストーキングはやめたまえ、といい、その後ろで娘が怯えてふるえている(ストーカーが怖くて)、というのであれば三百点だった、かもしれない。