circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

エチュード2集11番を弾いた後、17の彼女はでも、と言った。ショパンの情熱に自分が付いていけない。彼女はピアノよりも本質にバイオリンの人だったのだと思う。バイオリンだとたぶんその情熱についていけた人だったのだと思う、バイオリンのほうが好きだったし、レッスンも好きだった、先生が彼女が弾いている横で踊りだして、もっと感情を!と鼓舞されるのが好きだ、と言っていた。ぼくは舞台の上で自らを捧げきるような弾き方をする彼女に一目ぼれしたのだし、普段奥ゆかしい場所からものを話す彼女が、ショパンについていけない彼女が、たぶん、コントロールできないほどの熱がなかにあるのだろう、と思っていたし、彼女の母親も(よく話す人当たりのいい人だった)Aはたぶんだんだん感情を開けてきて話すようになるだろう、と言っていた。そう、話さない人だった。必要最小限しか、おそらく。「風立ちぬ」の二階を見上げるシーンのことを、二階から彼女が見下ろして手紙を投げてくれたころのことを思い出してしまって、ぼくは、ショパンの情熱を追いかけるしかないと思った。ショパンの情熱のなかで曲を書き始めたスクリャービンが、ショパンの圧倒的な情熱に達することができるわけがない。遠くで祖国の革命とその失敗をパリで聞きながら、いまぼくがポーランドにいたら、ロシア人を何人も刺し殺したい!と手紙に書いた彼の情熱を、ロシア人であるスクリャービンは知っていただろうか。事実激しく聞こえるばかりの彼の初期練習曲やポロネーズの類はすべてショパンへ及ばない。では情熱は越えなかったのか、それは中期(ジャズへの予言、夜の透明とほほえみの音楽)への助走にすぎなかったのか?ここでぼくは巨大なNOを言わなければならない、すくりゃの情熱はショパンの情熱と同じところへ実は達している、それがソナタ3番だ、と私は思う。えぐいソのダブルシャープのことを言っている。http://youtu.be/GABxMthPiWw?t=5m1s ここから聞いていくと、5:21、5:23、5:24にある、とくに5:23は★マークがついていて、アシュケナージはあえて注釈のダブルシャープを選んでいる、わたしはこちらが圧倒的に正しいと思う。メロディーよりも響きの観点から。5:23で無理な増二度の跳躍をしてこそ張り裂ける情熱があると思う。次の二分音符のギシス(長い跳躍)よりもむしろそのギシスへ飛び込むための跳躍(四分音符)のほうがずっと強度の高い跳躍のはずで、それをただのギスにして長い跳躍の準備運動にしてはならない。四分音符の跳躍こそが命がけだと思う。