circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

ジョン・フォード/コレヒドール戦記(1945)

蓮實御大の冒頭20分の解説付き。御大、どの作品を見ていない方や、このシーンで泣かない方には、やたらと暴力を振るうとか夜道に注意せよとか、仰る口の悪い芸が極まっている。淀川さんみたいに金曜ロードショウとかの映画の最初と最後に出てきて口の悪いことばかり言ってくれないだろうかと思う。

コレヒドール戦記は傑作として撮られた傑作(フォードにもいろいろあり、そのつもりなく撮ったのに傑作、とか、傑作になりえなかった興味深い作品、とかでなく)とのことで、たしかに長い上映時間が短く感じた。ショットが決まってる、というのはこう言うのを言うのかー、と思ってみた。私に抜けている感性。夜道を気をつけなくてはならない。潔癖なまでにアメリカの敗戦であり、潔癖なまでに日本人は出てこない(しかし冒頭の歌手は日系だったのではないか?)。御大のいう歌うこととダンスすることが実に良いというのは分かった。素人で歌う人をあんなに楽しい顔に撮るのか!階下から上に向かって歌う、その仰角の感じが確かに泣ける気がした。とにかくアメリカか負けてフィリピンをボロボロになりながら去るというだけの中でこそ、友情や死が生々しく見えて(ヒロイズムが少ない、とはいえ、ジョン・ウェインもその魚雷は強すぎるのだが。1945に、こんなに負けてぼろぼろで、しかも日本に対する何の恨みもない映画を撮るということの即物性というか、凄いなと思った。ただスペクタクルなのである。日本の飛行機の射撃にやられること、日本のでかい船に魚雷を打ち込んで破壊すること、ただそれだけで、そこに敵という感じがないことに素直に驚いた。バターンを舞台にしながら死の行進を取り上げないという選択肢がどうしてありえたのか。描きたいことがフォードには明確にあるとしか思えない。それが、やたら走ることや、進んでいく魚雷や、歌や、弔いの詩を暗誦するウェインや、船の上から星条旗をパクって飛び降りる海軍兵士(船は陸軍に譲らされる)の危険なほどの高さのジャンプや、海への飛び込みや…とても限られている、しかしなんといろんなことに限られていることか。最後のWe shall returnに素直に感動してしまったが、これはフォードのマッカーサーに対する当てつけだったのではないかとの解釈がわりと人々を占めていて、ああ、そうかと思う。マッカーサーは英雄としては書かれていない…非常に、異様にニュートラルに書かれている。もはや記号でしかない。