circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

No title #1 vaka とコルンのクインテット二楽章の間にある百年について、船長氏が繋げてくれている線のことを、きちんと考えたい。今朝ぼんやりとクインテット二楽章を聞いていたら、それがまったくno title1にしか聞こえなくて驚いた。確かにミレニアム単位で最高傑作とこれらを呼びうるとおもう。なにが通じているのか。クインテットにあってたとえば浄められた夜にないものは何なのか。ざっくり現代性だと思う。ひどいけど。のー根拠すぎるけど。いま、heiwaというようなことについて考える時、僕にとって、srのことを考えることは不可避だし、アイスランドのことを考えることも不可避だ。


非嫡出子や単独親に嫡出子同様の厚い福祉を与えるというようなことをしなければ、つまるところ文化的概念を変えて行かなければ、人口は減るしおいるし、いま日本で成長戦略がーとか、競争がーとか、一番がーとか言っている人たちは基本的に信じない方がいい(もし、うまく衰えていくというシナリオを少しも考えないならば)。衰えていく国を前提にして、どのような産業やら外交やらすべきかぼんやり考えると、一番長期の資本は文化しかないだろうよ。いまバブルが去り切らないうちに資本を文化へ投下しておくこと、衰退後もなんとかやれる環境を作ること、誰も尻拭いなんてし続ける人生なんて選びたくないから、後は野となれ山となれというやりかたよりは、いま少しのになる方を。早い話が、たとえば原発をはじめたことじたいが誤りだったこと。そのうえで、誰も尻拭いしなくてするような抜け方や続け方は何かを考えるのだろう。メンテナンスがいちばん地味で、責任ばかり重くて、儲からなくて、評価されない、というのは、途上国開発の文脈ばかりではないのだ。導入はいつでも華やかだが、その系を持続させるためにいかにやる気やらいきるきやらをかきたてることができるのか?シンプソンズをみたら答えがあるのではないか?


アイスランドに行かなくてはならないし、なぜウィーンがアメリカとアイスランドに同時につながっていくかを考えなくてはならないし、ノータイトルの五度跳躍と、クインテットの七度跳躍のとびに共有される静かな憧れとへいわさについて、どうしたら怒らずに生きていけるのかについて