circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

ドン・シーゲル/殺し屋ネルソン

また、蓮實総長の冒頭20分の煽り付き。殺し屋ネルソンの上映で満員になったのか、総長の「仇討ち」をみんな見たかったか。

「しかし、ドン・シーゲルの『殺し屋ネルソン』については、いまだ仇をとっておりません。」

https://gendai.media/articles/-/110785?page=1&imp=0

記念的な行事のようにシネフィルやシネフィルでないひとが集まり、映画よりも前座を楽しみに平日の夜の上映は17時で売り切れ、総長は折角書いてきた解説の筋書きとは違う何かをカバンに入れてしまい、殺し屋ネルソンの同時代に影響を受けた作品群をえー、えー、と思い出そうとしながら、その何か違うものを入れた後期高齢者が話しております、といいながら大砂塵に着地し、むしろ書かれていない総長のパロールを聞いていた、記憶されている名前たちはやはりしっかり記憶されていたが、殺し屋ネルソンが無視され続けたことな対するこの場の人たちの憤りが花火のように舞い上がり空にドン・シーゲルドン・シーゲルという文字を描けば良い、というのは用意されていたジョークだだたのだろうか、即興だったのだろうか。火薬田ドンみたいなことを言うなあと思った。

その後に続く殺し屋ネルソンは、ただただ凄かった。60年代以降にしか見たことのない画面の異様な緊張感で自分の中でパニックが発生しそうになった。とにかく俳優がみんななまなましくやられまくっている。そっけなく凄いスピードで見放され殺されていく。仲間を捨てるシーンは最高の速さで、怖いのと笑いとが同時に自分の中に起きる不思議な映画だった。過剰で、暴力的で、なぜか主演女優は緊張感のあるアクションシーンでアルカイックスマイルをかましている。わけがわからない。そして低予算。車が速いし、話も速いし、90分で全てが片付けられている。たしかにこのあとにヌーヴェルヴァーグが続くのだと思った。文法にはそっているが、ゆえに過剰だった。

蓮實「ショットとは何か」の表紙のみんながこちらに向かってかけてくる足の短い感じの素晴らしいショットは映画になかった。スティル写真だったのだろうか。