circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

シャンタル・アケルマン/ノー・ホーム・ムービー

辛い。いつからか遺作にするつもりで撮っていた、あるいは編集していたのではないか。荒れ果てた土地に吹く強い風から始まり、荒地はときどき挿入される。監督の内的光景か、あるいはブリュッセルをはなれたアメリカかどこかなのか。監督の老いた母がどんだんと話せなくなっていく、だんだんと忘れて、だんだんと声が弱くなっていく晩年の数年を取り続けている。まるでコロナ禍の映画のように、Skype(!)ごしにまだ話せたころの母と、ニューヨークで教えている娘は話す。なぜカメラで撮っているの?撮られるのは好きじゃない、と言われながら、シャンタルはMacBookに不器用にカメラを向ける、この、新しさ。そう、アケルマンは、2015年まで生きていた人なのだと。世界が少し間に合わなかったのだと。2015年にこの映画を遺作として、母の一年半後に、アケルマンは自死するが、濃厚に鬱的な空気が映画の最後の方には漂う。最後の母のシーンはもう最後になるのが分かって撮っているような感じもする。最後、母のいない開け放たれた家でなぜ泣き声のようなものが聞こえるのか。

どんどんと話すのが面倒になっていく母、外に出ることも。誤嚥しかけてなんどもむせて、それを励ましている監督の妹は明るく話しかける。息を吸って、背を伸ばして。シャンタルは今日帰るのよ、だから寝ないで。違うのよ、話したくないのじゃないの、話したいの、だけど30分寝させて。寝ると、もう話が半分しか分からなくなっている。半分しかわからない、と本人が言っている。このようになる前の頃は、これでもかとSkypeごしで娘のことを愛している、世界で一番素敵だ、とこの世の終わりかのように褒め称えていた。そういう順番なんだ、と思った。人はそういうふうに、意識があるうちに一生懸命伝えて、そしてだんだん忘れていき、奪われていくんだ。アウシュビッツの生き残りである母の、何を残そうとして撮っているのか、アウシュビッツという言葉を発した時、カメラを向けられる、おそらく家事手伝いの移民一世のようにみえる女性は、その言葉にあのユダヤ人のね、と、それまでと同じトーンで微笑みながら返している。むしろカメラが驚いているようだった。