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Diary of K. Watanabe

サミー・フレイ/《ジャンヌ・ディエルマン》をめぐって

「ジャンヌ・ディエルマン」のメイキング。よくもまあ25歳の無名の女性監督の映画に注目してメイキングを撮ったものだと思う。最初からこれがいつか歴史に証明されると判断したサミー・フレイおよびその恋人かつ主演女優のデルフィーヌ・セイリグの確信のすごさ。

2004年にシャンタル・アケルマンとだれかもう一人が編集した、と最後にクレジットがでた。監督・撮影はゴダール「はなればなれに」の例の3人組ダンスのひとりサミー・フレイ。主演女優の恋人だったとのこと。

「本作はその現場を主演のデルフィーヌ・セイリグの恋人であったサミー・フレイが撮影、アケルマン自身が編集したドキュメンタリー。仕草や場面の意味を何度も問いかける大女優、セイリグとそれに応えるアケルマン、何度も重ねられる二人の会話やスタッフの女性たちとのやりとりは必見!傑作が創られるまでの興味深い過程と情熱に加え、映像グループ「服従しないミューズたち」を結成し、自身もカメラを取って活動していたフェミニスト、セイリグの生き方や志も強く焼きついている。」

25歳、若く美しく、割と無計画なところもある監督シャンタル・アケルマンが、年上の大女優デルフィーヌ・セイリグに細かく詰められながら、決して謝らないし折れない、お互いが曲げずに、というかデルフィーヌが最終的に妥協するのだが、感情・思考を突き詰めたい女優と、そういう内面を欲さない感覚派の監督のぶつかり合いに終始している(セイリグは、あなたが演出で決めてしまっているならそう動くが、チェスの駒みたいになる、という。まさにロベール・ブレッソンのいう「モデル」みたいなものだろう)。セイリグの雄弁さは恐ろしいまでのもので、日本語字幕にされてもセイリグの発言は真っ直ぐ伝わってくる。一方、アケルマンのいうことはロジックではない世界、原則と美学から来ているので話が噛み合わない。あなたが演出しないなら私が一緒に演出してもいい、とまで言う。実際に、映画界でのフェミニストとして早かったセイリグは、いくつか監督作を残してもいるらしい。芸術面はおいておいて、劇的なら意味では、映画本編そのものよりずっと面白いメイキングだった。よくあの映画がこの経過を経て撮られたものだ。延々と続く女優からのツッコミはしかし、女性同士の平等な関係性をもとに行われていることが分かる。普段(男性監督に対し)セイリグはここまで要求していないようなのである。最終的にはアケルマンもセイリグもこの映画を最初のフェミニズム映画とすべく、同じ方向を向いており、「こんなに自由な現場はなかった」とセイリグはいう(現場スタッフはほとんどが女性であった)が、しかし音響スタッフたちとの別れ際に、10年後のあなたに会いたいわ、私がいま何を言っているかそのころにはわかるだろう、と言い、いや私たちは変わらない、あなたには賛成できないと反論され、フェミニストとしての世代感覚というか、経験の違いから仲良く別れるわけにいかない。1975年、セイリグは「ジャンヌ・ディエルマン」と同じ年にマルグリット・デュラスインディア・ソング」にも主演している。なにかそれが決定的なことのように思える。デュラスとアケルマンの年齢は激しく離れているが。

アケルマン自身とセイリグがどのようにこの作品の後に話したかは音響スタッフと同じような喧嘩別れだったかどうか分からないが、ほぼ10年後にふたたび「ゴールデン・エイティーズ」(1986)で主演することになる(役名はまたジャンヌになる)。どれぐらい同じスタッフがいたかはかなりわからない。映画自体も「ジャンヌ・ディエルマン」ほど尖ってはいないし、もっと感情や思考のわかるキャラクターになっているが、どちらが面白いかというと「ジャンヌ・ディエルマン」の方だろうとは思う。

一番面白かったのは机でカツレツを作るシーン。本編でもびっくりしたが、演じているほうも料理についてアドバイスするスタッフも驚いていた。肉を後で食べるかという話で、机で作ったやつは食べなくない、違う方のを食べるみたいな話が、この緊張感漂うことの多いメイキングのなかで一番笑えるシーンだった。

それにしても照明が近い!暑かっただろうなあと思っていたら暑いとスタッフが言っていた。影がない映画ではあった。セイリグがあれだけつめつめにしたから、冷徹なほどの動きのキマりっぷりが出たのか、あるいはセイリグが何も言わないほうがブレッソンのようになったのか。でも、明らかに、アケルマンが求めていたものはブレッソン映画ではなかった。リラックス、なども求めており、結局は母親や叔母といった人々のリアルに迫ろうとしていたのだから、やはりセイリグが何をさせられようとしているのかは理解して、細かく詰めないとああはならなかっただろうということで、監督と主演俳優の熱烈な議論は結果よいコンビだったということではないでしょうか。だってストローブ=ユイレブレッソンでこんなに俳優が問うことはないでしょうし、ゴダールに至っては問う暇も与えないわけでしょうし。

しかし感情を描かなかったからこその名作ではあるので、セイリグに傾きすぎれば逆に観客に違和感を感じさせない形になってしまったのではないか(自然になってしまったのではないか)。この作品はある種の不親切さにたいして観客の積極的介入が必要な違いの映画ではあるし…

 

やはりどうしてもダニエル・ユイレを思い出してしまう。ダニエル・ユイレのバッハ映画での朗読と、シャンタル・アケルマンのこのメイキングでの手紙朗読はほとんど同じだ。感情ではなくリズムで読め、とまでアケルマンは言い放つ(響かない)。ユイレが詩人フォルティーニに、詩人自身の詩の抑揚とリズムを、なぜか叩き込んでいた(何度も楽譜を練習するように…色々な色で抑揚やリズムが楽譜=テキストに書き込まれていたはずだ)姿が、ここでアケルマンがセリッグに対して行おうとしていたことではないだろうか?(そして理解は得られていない)