circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

中島敦 山月記

、を読んだ。電車に揺られながら携帯で読んだ。教科書では多分読まなかった。心が痛んだ。刺されるような気がした。

人々は己を倨傲《きょごう》だ、尊大だといった。実は、それが殆《ほとん》ど羞恥心《しゅうちしん》に近いものであることを、人々は知らなかった。

 なんてことだ。これはわたしじゃないか。人に交わるのが本当は嫌いではないのに、ただ恥ずかしい、そこによくわからないプライドの高さもあるのは確かだ、けれども、メインは恥ずかしさであり、うまく交わることが出来たら嬉しかったりも、信頼したりもできる。だが、恥ずかしさから交われないでいると、あいつは自分が他人と違ってすごいんだ、というふりをしているのだと思われてしまう。たちが悪いのは、それも一部、真実であるからだ。メインじゃなくて、サブだったとしても。「臆病な自尊心」を持っている。人に対して臆病なのと同時に、自分に才能がなかった場合の怖さをこの人は恐れている。

己《おのれ》の珠《たま》に非《あら》ざることを惧《おそ》れるが故《ゆえ》に、敢《あえ》て刻苦して磨《みが》こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々《ろくろく》として瓦《かわら》に伍することも出来なかった。

なんということだ。自分が珠でないとわかってしまうのは、それを磨いても磨いても光らない時だ、と決めつけて、磨かないことによって自分の珠である可能性に賭ける。ただ、彼は詩を作っていたのだ。刻苦して磨こうともしなかった、というのは彼特有の自嘲に過ぎるのではないか?こう考えていると、彼が「磨く」という行為を、他者との(魂の?)交わりから生じると見ているのではないか、と思えてくる。

己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨《せっさたくま》に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍《ご》することも潔《いさぎよ》しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為《せい》である。

臆病な自尊心と尊大な羞恥心、というシンメトリーな修飾・被修飾の組み合わせにより、彼は師に就くことも、友と切磋琢磨もしなかった。師よりも、友よりも、優れていると信じたかったのだろうし、もともと持っている才能が彼らより劣っているということを証明もしたくなかった。他者に自分を開かない時、彼の中の臆病な自尊心、尊大な羞恥心は凄まじい勢いで膨らんでいく。それは繊細なシャボン玉を少しずつ膨らませていく、自己を深化していくプロセスではなく、ただただ、強いゴム風船にすごい空圧のボンベからガスを急速に吹き入れていき、どんどん膨らんでいくすさまじい速度に、今にも割れてしまうのではないかと手汗を握るような気持ちだろう。実際に、風船は割れてしまい、彼は発狂して虎に変身してしまうし、兎なんかむしゃむしゃ食べてしまう。彼は、詩が好きだったのだろうか?わたしには、彼が感性の犠牲者だったのではないかと思えてしまう。詩が作れる感性を彼は持っていた。そしてそれを、のびのびと伸ばすのではなく、その矛先を自分に向けてしまった。(書けば書くほど、おのれをずたずたにしていたのではないだろうか。)もし彼が、詩の才能が全くなく、詩を書くことを好きだという気持ちだけ持っていて、詩人の感性ではなく、詩人のたましいの方を大切に生きることができたなら。

己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。

詩才を専一に磨いた彼らは、自分の才能のなさに不安を感じなかったのだろうか。それとも、詩を作るということのたましいの喜びがその不安に勝り、そのたましいを共有する詩友たちとの交わりの中で、自己を確立していったのではないだろうか。

人生は何事をも為《な》さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄《ろう》しながら、事実は、才能の不足を暴露《ばくろ》するかも知れないとの卑怯《ひきょう》な危惧《きぐ》と、刻苦を厭《いと》う怠惰とが己の凡《すべ》てだったのだ。己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。虎と成り果てた今、己は漸《ようや》くそれに気が付いた。

これが、わたしの全てでもある。卑怯な危惧と刻苦を厭う怠惰。でもさ、もし、自分に才能がないし、楽しめるたましいも持ち合わせていない、と判明したら、どうしたらいいんだろう。才能がないともしわかったときに、それでも刻苦を厭う怠惰に対抗していけるのは、その動力は何なのか。才能がそちらにない、と結論づけることを、仕方がない、諦めよう、と思えること、そして絶望せずに羅針盤を見つめるように俯瞰して、違う方向に本当の自分がいるのではないか、と探し求めていくことを、しなくてはならないのではないか。