circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

スクリャービンの一番良い時期の曲はなぜかあまり弾かれない。コルンゴルトと似ている。スタイルがかわるきわのところが、いちばん美しいのに、きわっきわなのだから、あまり手が出されない。スタイルがあるようでないからなのか。スクリャービンエチュードばかり弾いている人たちがいて、ホロヴィッツとか。ぼくはエチュードはちっとも良くないと思う。初期プレリュードばかり弾いている人たちがいて。ホロヴィッツとか。ぼくは初期プレリュードは一部しかよくないと思う。そして曖昧な美しさの中期をすっ飛ばして後期ばかり弾く人たちがいる。ホロヴィッツとか。ぼくは後期はちっともわからないし、もっと中期をしって欲しいと思う。ずっとスクリャービン中期の一部の曲を弾いていたい。とはいえ今日はホロヴィッツの弾く詩曲32-1を聴いて度肝を抜かれた日でした。残念だなあ…


ぼくが知る限り、詩、ポエムという題名を臆面もなく曲に使いまくったのはスクリャービンをおいておらず、曲を知らずに音楽事典ばかり喜んで読んでいたぼくは、なんだか安っぽい人がいる、しかも再評価だって、ださ!と思っており、コルンゴルトについても再評価とか…と、クラシックにはやりを持ち込む今でしょ感が品がないとおもっていたのだけれど、いまや二大好きな人みたいになってるのでわからないものだ、死の都、好きでないがね、ソナタ五番、好きではないがね。


昨日から法悦の詩、が止まらないの。あれは、なんという曲だろう!チャイコフスキーブルックナーにつなげて行くようでいて、つまり、メロメロな歌がありつつ宇宙へいってしまう感じ。ブルックナーのように、同じリズムをかさねて大きくなる(もちろんブルックナーは音楽とは言い難い世界まで重ねるので別格の天才で、スクリャービンの法悦は音楽の側にいる)。ここでも、透明性が大切で、弾く一人一人が見えなくてはならない。そこは、ブルックナーに似ている。ゴロヴァーノフが法悦で失敗しているのは濁りのせいだ。人ではないものはすんでいなくてはならない。かれはマーラーを演奏すべきだった。


She found nowの冒頭の、不安定な和声は、不安定なのにどうしてこんなにほほえみに満ちているのだろう?永い沈黙のあとにこんなにも美しい微笑があったということを、知らずに死んだ人たちがいれば、あの世までようつべを飛ばしてあげたい。ほんとに綺麗なんだから!最初の歌い出し前のハミングの音程はなんだ、あのハーモニー、もはやかれは掃除機ではなく、美しいヘリコプターを得たのだと、きょうしたり顔でおもった。ヘリだ、これが美しいヘリなわけです。夢のヘリ。