circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

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体罰はいけないことだ。


生徒は生徒である前に人間であり、教師は教師である前に人間である以上、同等である。


なぜ平等である人間同士が、ただの年齢の差だけで体罰を与える/受ける立場にならねばならないのか。


子どもが教育を受けるのは権利であり、義務ではない。教育の義務は親が持つものだ。それなのになぜ体罰を受ける義務があるだろうか。いったい教育者は何の権限で体罰を与えるのか。


もし教育者が心からの感動をもって、人間には殴られない権利がある。社会には上下関係はなく、殴る権限はだれも有しない。そう教えたなら、(それも小学一年生のときに、哲学の時間で)どうしていじめなど起こるはずがあるだろうか。どうして差別など起こるはずがあるだろうか。


小学校でまず教えなければならないのは、1+1=2よりも、もっと意味のある、こういう哲学的な倫理を植えつけることではないのか。そして、そのためには教師は生徒を生徒として見るのではなく、自分と同じだけ一人の立派な人間として、同等に語り合わなければならないだろう。


教師は別に立派な人間ではなくて、生徒よりちょっと勉強がうまくできるにすぎない。人間としては子どもと全く同じである。教師はまったく偉くない。そして、教師と生徒は教える/教えられるの関係ではなく、同じ姿勢のもとで、「人間」になるということを考えていかねばならない。そして、人間がみな平等であることのすばらしさを、美しさを、みなで喜び合い、感動しあうことこそ、本当の「教育」ではあるまいか。


ざっとこんなことを小さいうちに、できれば小学生のうちに教えることをしておけば、いじめはなくなるに違いないのに。


そして、体罰は、上下関係と暴力という視点において、いじめの構造そのものを内包している。そんなことを教育してどうするのだ。