circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

物事が崩壊に向かっていることを知らないままサスペンドされていた1年間、わたしはうちなる彼女に語りかけ、うちなる彼女の目で大学一年生という物語を見ていたような気がする。あの池のほとりで、彼女の引用した漱石の一節のことを考えたりしていた。いつか現実に話すことができる日が来るはずだったが、いまは彼女は集中しなくてはいけない時期だった。しかし、それならなぜ私は故郷をはなれて東京に来てしまったのか。自分から切り離したようなものではなかったか。しかし、彼女はどこへ行くことになるか分からなかったし、もし彼女が消えた後にまだあの盆地にいるわたしを考えたら、その方が恐ろしかったかもしれない。世界は灰色になったが、その中で東京の空の下は忙しく動いていた(そしてそれに適応できなくなっていった、それも結局はもうひとつの世界の破局ではあった)。もとよりわたしは彼女とあの世側で会っていたのだろうと思う。高校三年生の見ていた恋人のすがたなど、夢と憧れとあと自分の中のアニマの投影に過ぎず、それはこの世の彼女自身であったわけではない。ただ、アニマの投影先として、あまりに柔らかく透明で白く彼女はあり過ぎた。アニマを投影されやすい人というのは存在する。存在として完全に美しい媒体として彼女はあった、そしておそらくたくさんの人が恋をしていった、それは彼女の中にあるものを本当には見ないまま、そして彼女自身が本当に中にあるものを表出するのが上手くないように、いつも微笑んでゆっくりと話し、よく笑ったが、激することはなかった(、いや、あった、けれども、慎ましい形ではあった。)おそらく、大人になれば、と彼女の母親は言った、私のようにたくさん自分のことも話せるようになると思うよ。そして私もそうに違いないと思う。いま、本当の自分が表に出るようになった彼女に会うことがあったら私はどう考えるかについて、よく考える。勝手に自分で幻滅することになるのか、まだ惹かれるのか、それは分からない。女神としてではなく、一人の人間に対してとして、話せるようになっているかもしれない。その未来は来ないことは分かっているのだけれど。