circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

えんえんとシベリウス七番が聞こえ、これはたぶん、忍び寄る綺麗な思慕のような曲だとおもう。14歳の時の友人の手紙を持ち歩いている。久しぶりに手紙を送ったら、かえってこなかった。五年ほど前までは論文を書いていて検索すると英語の論文が出てくる。勝手に亡くなったのだろうと思う、ぱたりと、それからなくなる。22の時に送った年賀状以来連絡をしていなかった。14の頃彼女に手紙を書いて勧めたのはラヴェルであって、その返信が鞄に入っているそれで、たぶん亡くなっている気がするから、そのまま入っている。きちんと読み直すことができない。シベリウス七番のことばかり考える。二楽章にあたる部分のリフ、三楽章に当たる部分へなだれ込むまえの、青春の階段を転げ落ちて行ったあとに、荒れた海のあるような…好きな、大好きな、映画に、今題名の思い出せない、、ベルイマン監督の映画があって、本でとてもとても勧めているひとがいたから、あらゆるレンタルビデオ屋さんを探したのだけれど、レンタルがでないえいがもあるし、とあきらめていたら新宿のツタヤに一本だけVHSがあった(今はもうない)。フィンランドの夏の海の映画だった。とても爽やかな短い夏の長い一日の光る海の光の中に絶望があって、階段を欠け落ちていくような映画だった。映画の話で時を忘れることができたゆいいつの人だった、亡くなった人、、、たいてい映画をすきなひとなんて、喧嘩するようにできているし、まわりなんか敵だらけなのに。同じベルイマンのその映画が一番いいって言ってくれて、どこで見たの、新宿のツタヤに古いビデオが、あ、同じだ、といったとき、すごく、嬉しかった。そんなことばかり考えて、落ち込んで一日寝込んでいる。




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女性性、ということについて、ばかり、考えるわたしは、とても実は男性なのだろう、そして、セクシストなのだろう、か?ある詩人さんを、敬愛していて、数年後彼女が彼だったと知った時に、でもわたしは彼女は彼女だと思ったし、彼女が実は中の人が彼だと明かしていたことに落ち込んだ。かれが自ら彼女を殺してしまったようにおもえて、落ち込んだ。わたしはいまだに、たぶん、かれのなかに一つのとじたものとして彼女があったと思っているし、その人とその人の息遣いが染み渡っていた彼女の詩をやはり好きだと思い、その、事件(わたしの中では大事件だったのだ)のとき、電話を友人にかけた。女性の名前で詩を書いたときに、恋されて本当に申し訳なかった、と友人は言った。それでわたしもかつて女性名で書いていた詩群のことを思い出したのだけれど、あの人ほど、自分と隔離した一つの女性としての世界や、物語を作れていなかったし、ゆえに魅力もなかったことを思い出した。そういう意味で、余計に凹んだ、中の人の格が違うし、天才だったんだなあ、と頭が下がった、その天才性は、彼女の詩の、というものもそうだけど、それとは別に、一つの魅力的な女性像を作り上げた彼の天才性で。いつかどこかで彼とすれ違うことがあれば、ふと、そのことを伝えたいなと思った。彼女を殺した彼のことは、好きでも嫌いでもないけど、彼女のことは好きだったし、いつでも蘇生させて欲しい、けど、多分それはとても難しいことじゃないだろうかって。僕の中にいた女性は、もうしばらく息をしていない。大変すきだと言ってくれた唯一の女性は、たぶん、彼女の、僕が作ったのではなくパートナーが作ったぶぶんを好きになっていたし、パートナーは女性だったから、やはり僕は彼の格には遠く及ばないのだった。




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くるり、にビートルズ中期、つまり、ラバーソウル、リボルバー、そしてレインあたりの響きの美しさを求めていたわたしは、だからこそ、ファンデリアは神のアルバムだと思っているのだけれど、同じ意味でいま、べりーずの「蝉」だけはものすごく響く。一枚この方向性だけで作ってくれればいいのに、とすら思う。
http://youtu.be/-O_jcpg7Fns
とくに、1:20からのコーラス付きの部分がないてしまう。このコード感、このコード感や!と思う。そして、この部分を歌っている人
が、ノンビブラートでくるしげなのがよい。ビートルズ中期の響きに、歌のいわゆるうまさなんていらなくて、コーラスが綺麗ならそれでいいとおもって、岸田君が歌をあのころストレートに歌っていた意味はそこにあると思う。ビートルズ本人も、へんな歌い方をしていない。歌声の不安定さこそが必要だったということを証明するには、4:02の舞波さんが全てだな、と思う。勝手に切なくなるのはこの曲のビデオを見ていて一番舞波さん(と梨沙子さん)が生き生きとしているからだろうなとおもう。
あとは、ビートルズサイケ期の逆回転の使用だけれど、逆回転をリボルバーの固いサウンドの中に入れたらどれだけこの回顧的な響きがするのかという、新しい形な気がする(ビートルズの逆回転に回顧の響きは多分なかったのではないか、ここまでは。むしろ、サイケに寄っていたような。蝉、にサイケはもちろん全く感じない。この方向性、もっと行けるはず


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https://www.youtube.com/watch?v=hGP6IlXS_Ms
史上最高のシベリウス指揮者と呼ばれる人が、サウスポーだった意味については、考える価値があることのように思う。三楽章の最後の数分、白鳥の動機がなだらかに高まっていくとき、それが左手で表されて行く、はくがあらわされていく、ということ。