circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

「蝉」https://www.youtube.com/watch?v=-O_jcpg7Fnsがどんどん入ってきて不味いことになっている。1:39からのベースの下降音型はストロベリーフィールズフォーエヴァーを思わせる、という人がいたが、私にはsomethingのサビにしか聞こえない。でも曲を支配しているのはこういった後期(僕はサイケ期は中期というよりももう後期と勝手に片付けているため)の音ではなくて、愛するリヴォルヴァーとレインの音がしている。しかも入っている電子オルガンは明らかに後期(というかゲットバックセッション)のビリー・プレストンから来ているのは間違いない、つまり、中期を核として、逆回転や電子オルガンという後期のいろいろをほおりこんでいる、でもやっぱり音は、中期のさみしさ、イエスタデイあたりに響いているあの「永遠のなつやすみ」感(ビートルズにしかないやつ)が、ちゃんと響いている。1:39から下降したベースは最後にオクターブ上昇(!!!)するわけで、ここがどうしようもなく、ああ、あれだ、ファンデリアとおなじく、中期ビートルズのさみしさみたいなものの、本質的な核に触れてしまっている、これ、なんでこれができるのに、岸田もつんくも走り去ってしまうのか、ビートルズも走り去ってしまうのか。もう一枚これを作ってほしいなと、そればかり思うんだけどな。儚さ、という意味では、やっぱり梨沙子さんはすごい人だったんだな、と最後の「みしーん」を二回斜めに言う唇を見ていて思う。
https://www.youtube.com/watch?v=07v0Ezzyh40 ライブ版。やっぱり舞波さんがいい仕事をしている。あの「ぅわたしが」はすごく重要だと思う。


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流れでシーセッドシーセッドを聞いてしまい、このサウンドは誰もそのあとやってないんだろうなあ、もったいない、とそればかり思う。ようするに、バンドの人たちにとって、「簡単すぎる」のだろう。フレーズや、ヴォーカルや、すべてが。そういういみでみんなソロイスティックになってしまい、ビートルズがやっていたことは逆にシンフォニックだったのだということだろう。ギター二台とただ一音を押し続けるだけのオルガン、変な動きのベース、と、一番重要なヴォーカルハーモニー、(あとリンゴさん)その一つ一つはたぶん、当時のロック野郎が少しも感心しないものだったんだろうけれど、どこまでもクラシック引きこもりの私には果てしなく美しく思える。



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鳩が空を横切る瞬間、シャッターを切る。切った瞬間の沈黙は永遠に続く。そこに彼女はいない。いないのに切実にいる。明日にも自殺しそうな切実さで。投げやりなほどのスピードで、彼女も言葉も駆け抜ける。前も後ろも死の、その一瞬に。

竹上に。自分が書いたなかで一番好きな文、と思う時がある。全部彼女が書いたモチーフだけど。



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https://www.youtube.com/watch?v=KF2Q0IKkWvA
シベリウス、最後の交響曲。大好きなのは7:30あたりからはじまる(正確には7:48)第二楽章にあたる部分(単一楽章なのだけれど)から、第三楽章にあたる部分になだれこむまで(〜11:30あたり)。ここに、一つの世界のすべてがあると思う。「青い麦」的な、海と、海を見下ろす草原と、山、それから崖、そして思春期の世界。9:55のフルートだかピッコロだかのシンコペーションによって、めくるめく青春がはじまる。10:02で現れるこの動機。崖駆け下り動機。10:40のフルートだかピッコロだかがもういちど心臓を衝くと、あとは運命の駆け下りが止まらない。10:53になって草原から海へ落ちると、ただひとけがなくなって、暗い海が広がっていく。ベルグルンドの2回目の録音(ヘルシンキ)をずっと聞いていたから、その録音でないとちっともそのわくわくかんがやってこないのだけれど。
こちらは3回目の録音:
https://www.youtube.com/watch?v=UuQ_R0onRV8
こちらの方が、音は整理されているけれど、やっぱり夢みたいなヘルシンキの録音には届かない(クリアすぎるし、金管が吠えすぎる)。ボーンマスの録音(1回目)は未聴、今とても聞きたい。