circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

19950711.

いわゆる「いじめ」について。

まずはっきり言っておきたいのは、「いじめ」について、まったく議論されていない
重要な問題があることである。
その問題とは、「いじめ」という単語「自体」の不公平性である。この単語のせいで、
何人の子供が告白を諦めただろう。
「いじめられっ子」という日本語に私は最も腹が立つ。
「弱い」とか、「かっこ悪い」とかいう、嫌なイメージをこの単語自体が含んでいる。
それに対して、「いじめっ子」はときにやんちゃで、元気で、子供らしく、アグレッシブなイメージが含まれる。
すなわち、「いじめ」という事柄をあらわす「いじめ」という言葉「自体」が
不公平であり、「いじめっ子」に味方しているのである。
「いじめられっ子」と呼ばれるのは恥である。「いじめられっ子」はかっこ悪い。
なぜこのように「被害者」が世の中から苦しめられなくてはならないのか。
一方、「いじめっ子」は世の中から何の咎めも受けず、
「うちの子ってちょっとやんちゃが過ぎて」程度にしか親も考えていない。
私は「いじめ」と呼ぶ代わりに「犯罪」と呼ぶべきだと強く強く主張する。
「いじめ」と呼ぶ代わりに「名誉毀損罪」「傷害罪」と呼ぶべきだと強く強く主張する。
「いじめっ子」と呼ぶ代わりに「加害者」と呼ぶべきだ強く強く主張する。
「いじめ」は犯罪だという事実を、学校内であやふやにしないために。
罪に対する罰が、社会に対して透明に下されるべきであることを、あやふやにしないために。

「いじめられっ子」になるぐらいなら「いじめっ子」になって欲しい、
それぐらい子供は元気でいて欲しい。そう思っている親がどれだけいることか。
情けない。自分の子供が「傷害罪」の罪人とよばれたとしたら、
本当にこのようなことを言っていられるのだろうか?
「いじめっ子」という甘い言葉が、このような親や社会や子供たちの甘い認識を産んでいるのではないだろうか。


#以上はずいぶん後に改稿した文章。(原文が興奮しすぎてとても読める文章ではない)
#しかし、論理の展開が異なっているので、以下かなり酷い内容だが、原文を引用してもとの論理展開を示す。

いぢめではない。サディズムなのだ。

7.11  いわゆる「いじめ」について。

まずはっきり言っておきたいのは、「いじめ」というこのマスコミなどでも報道されていることで、全く気がつかれていない問題があることである。
その問題とは、「いじめ」という日本語のおかしさである。この(傍点)言葉(/傍点)のせいで、何人の子供が告白をあきらめただろう。何人が絶望におちいったであろう。
それほどこの言葉には、毒のある矛盾がある。(傍点)しかしだれも、またどこのマスコミも、その問題を指摘したことがない(/傍点)。これは寂しいことである。
美しいはずの日本語の最醜語である。この言葉があるため、日本語を私は憎む。戦後、志賀直哉が日本語はよくない、フランス語を国語にすべしと言ったが、その方がよっぽどよかったかもしれぬ。
「いじめ」というより「サディズム」である。これは、(傍点)いじめる方は(/傍点)格段愉しい。

…さて、なぜか。「いじめ」とゆーものは概して「弱い者がもっと弱い者をいじめる」とか
「弱い立場のものをいじめる」などと使われる。
しかしここが間違いなのである。史上最大の間違いであり、偏見であり、
思想の暴力である。
本当のところ、このサディズムのヒガイ者はサディストより数百枚上手の人間だ。
深い人間なのだ。もうそれはイエス・キリストの境地にまで達するのだ。聖人になるのだ。
しかし、世の中はバカである。
彼らのことを弱い立場とか思っている。何という思い上がりだ。
御前らより格段彼らの心は強い。強い人間なのだ。
しかし人間たちはバカである。このヒガイ者が自殺すると、「彼は
負けた。強い人間でなかった。」という。芥川は自殺した。ソクラテスも自殺行為だ。
彼らは深い人間だ。強い人間だった。そしてそれはよいことだった。自殺もまた。
自殺と「弱い人間」とを結び付けてはならぬ。凡人はバカで軽ハクだから、何も分からない。

これで、一般に「いぢめられっこ」などとバカな人間たちのよぶ尊い人たちが、
少なくとも「いじめっ子」より強い人間であることが、バカなこの読者たちにも分かっただろう。
#引用者注:僕はこれを投書かなんかの原稿のつもりで書いたのだが、もちろん出してはいない。
キリストの迫害を「いじめ」と人は言わぬ。しかし、目の前の神のごとき子供が迫害をうけるのを
「いじめ」と言う。これこそいじめの加担者であろう。

強い人間が自分がサディズムのヒガイ者であることを認めるのは、
一般には「いじめられている」ととられる。
いじめは「強から弱へ」だから、(引用者注:「いじめられている」と先生に報告するときには)
とうぜん己を弱いとしなければならぬ。
これほどつらいことはない!(自分はいじめられっ子だとみとめることがこれほどつらいことはない!!)
(引用者注:このへん一帯の自体の乱れはすさまじい。)
これで「いじめ」なる間違った言葉が、その問題をよけい拡大しているのだ!!分かってもらえましたか。

これが「いじめ」という言葉の原罪である。




かくいう私もサディズムの被害者だった。
しかし私は強い人間だった。彼らよりずっと。
だから無視した。
しかしまわりの目はこれを「いじめ」とみた。
私にはこれがいちばん辛かった。
磯谷先生はいい先生だったが、この「いじめ」という言葉の原罪なんて
ちっとも分かっていなかった。田中先生はもっと最悪である。彼は
私の説明のことを「百歩ゆずってそーだったとしても…」などとバカな
ことを言った。まったくこの「いじめ」という言葉が好きなのであろう。
世の中こんな人間ばっかりだからおかしくなるのだ!!(引用者注:ここも激しい字荒れ)

私はだれにもヒガイをうけてることをいえず、サディストからは「いぢめられっこ」と
みられ、暴行をうけ、他人はまたこれをいじめと見、I先生は見もしなかった。
私がこのことをうちあけたとしても、これは「いじめ」であるとみとめることになる。
私はイエス・キリストだから、そんなことをしたくない。まちがってる!!

 私はそのせいで胃がおかしくなった。
 すべては日本語のまちがいである。