circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

TWを見ていると気持ちが安らがない。誰が一番いいと思うかということはわたしはすぐに言える。一方、いつもものごとには、重要性の軸と緊急性の軸がある。自殺者を減らすべきだし、最小不幸(この言葉がかつて首相の口から出たということは、ちっとも評価されなかった)の社会になるべきだし、それと資本主義をどうやって折り合いをつけていくか、ということはとても大事だと思う。そういう視座がある人がいいことはすぐに言える。でも今が戦前ということのほうが、ずっと緊急度が高い(という仮定の下に話す。その仮定が共有されない場合は以下は無効)。宣戦布告をした後で労働状況の話はできない。現実のゲームとして、いま戦争に向かう発想が4割、それを嫌がる発想が6割あるとして、6が3、3になっているとすれば、もしそれが緊急事態ということであればどちらかがリーダーになりどちらかが副リーダーになるというのがいいだろうし(このさい、じゃんけんでいい)、おたがいの政策があまりにも違うのであれば、政策を主張することはひとまず捨てて(それは時間をかけて後で話し合う必要はあるし、その「話し合い」を公約しなくてはならない)、緊急度の高いことのみを公約とするしかないだろう。二人で打倒ABというだけで良いんではないか。以上は、緊急度に関する意見が二名に同じであった場合、という大きな前提のもとで。緊急ではないのであれば、それぞれがそれぞれの政策を論理的に論じ、それぞれの票をとって負けてもそれはその数だけのその論の味方がある、として未来につながる。次の選挙につながる。ただし、それは次の選挙というものが存在するという前提に二人がたてばのことだろう。
かつて賄賂を受け取ったかもしれない人間と手を結ぶというのはきれいな人間であればしたくないかもしれないけれど、現実としていままでの政治が賄賂的なものなしで動いてこなかった、だれしもが賄賂を受け取っていた、「いま、政治とは賄賂だ」、という仮定が正しかったとしてまたそれを受け入れることができるならば、それを賄賂なしの政治に、という非常に正しいことの、しかしその「緊急性」について、おなじく考えなくてはならないんじゃないだろうか。なによりも怖いことは自らの無謬性を無前提に信じることだ。