須賀敦子さん、
あなたが、決して長くなかった人生のなかで、なんども行き止まりにぶちあたったり、座礁したりしながら、なんとか舵を切りなおし、べつの生き方を模索してきたその、最後の地点として、理不尽なほど短い期間しか与えられなかった作家という天職に至った、そのとおくとおく脱線しつづけた歩みかたそのものが、いまの私にとっては灯台のように思います。生前に残されたあなたの五冊の文学作品を、随筆と呼ぶか、エッセイと呼ぶか、短篇集と呼ぶかはさておき、それがあなたにとって文学であり、創作であったこと、自分がそう認めることができるものを人生のいちばん最後に残せたということに、私は胸をうたれます。ながい間、なにかを書きたい、わたしはいうべきものをなにか持っているんだ、と思っていたのに、それをずうっと、出せなくてくるしんだ。文学なんかにうつつを抜かしていいのか、現代社会の問題、あるいは日本のカトリック教会の問題を、変えるために何かしなければならないのではないか、といって。あなたは、自分がほんとうに好きなものとしての「文学」と、キリストに召命されたものとしての「宗教」との両極の間を揺れ続けた。さらに加えて、戦後すぐにおいては難しかった女性の自立問題も含めた、社会に対する「行動」という、三つの両立がむずかしい問題を抱えながら、常にその三点のどれかの糸を縒りあわせるように生きた。たとえば宗教的な行動として、エマウス運動(廃品回収をして利益を寄付する)を主導したり、作品として残された五冊からは考えられないほどにまっすぐな変革のメッセージをキリスト教の月刊誌「聖心の使徒」に投稿したりした(これらは時に文学的であったり、時に行動を勧めかけるようなものであったりしたが、いずれにせよ宗教的なテキストだった)。でも、あなたが自分の文学、として、本の形で残した五冊や、あるいは雑誌に発表したのち病床で推敲はしたものの生前に発表されなかった数冊(そのうち何冊がほんとうにあなたの納得できる水準まで推敲されたものかは、おそらく編集者しか知らないし、あるいは編集者すら知らないかもしれない)において、あなたはけっして明示的には宗教について書かなかった。それどころか、神と自分との関係を文学として書いてしまうことは、はずかしいことだ、それは逃げなのだ、という激しい嫌悪感をあなたは示した。最晩年、あなたが宗教について、これまで試さなかったフィクションという形式で小説「アルザスの曲りくねった道」を書こうとしたときに、それがどのような形を取ることになったか、わたしは見たかったような気がするけれど、それはやっぱり、主人公の独白のようなかたち(たとえば、神の沈黙を問うような)をとることなく、話者の「わたし」が主人公の修道女を観察し、彼女の行動、表情やそぶりを回想しながら描写するかたちをとっただろうと思う。じっさい、遺された小説の未定稿は序章のみが残され、その語り口はあなたの他の作品、回想風エッセイと呼ばれたりもする作品たちと大きな変わりはない。「アルザスに行って、修道女オディール・シュレペールのあとをたずねよう。」という文が序章の結びの部分にあり、やっぱりあなたは、神との内面での会話をそのまま文学として書くつもりがけっしてなかったのだと思う。三冊目の作品「ヴェネツィアの宿」のなかで実父の不倫を書いたときに、あなたは、私小説みたいに生々しくとぐろをまく感情を吐露しなかった、そのように。未完小説の「創作ノート6」に、「終始『私』が見ている人物として、外から描くこと。自然体で」と書いているのも(とくに「終始」という強いことば!)、主人公の宗教的独白をぜったいに避けるのだというあなたの強い意志が見えるように思う。文学には「ものごとをぼやかして見せるあの霧」がなくてはならない、とあなたは友人に語った。
公開するつもりもなかったはずの日記やノートや私信が、あなたの死後、全集に載せられ、あるいは全集の後にも発見されたりして、公開された。いちど雑誌に載せた文章ですら出版するときになんども改稿したあなただから、発表しなかった私的な文章を公衆に読まれてしまうのは歯痒いだろうし、はずかしいだろうと思う。「あちこち書き足したり、表現を変えたかったと、故人も思っただろうに違いないのだが、時間の終わりはあんまり早く来た」と、『バスラーの白い空から』(佐野英二郎)についての書評であなたは書いた。佐野さんは作家ではなくひとりの商社マンで、知人の個人誌や、業界の専門誌に寄稿した原稿を、死後、友人がまとめて出したのがこの本だった。だからいちどは本人の意志で外に出された文章ではあるのだが、それでも改稿したかっただろうに、と思いやる。「ぎらぎらした気持で書かれたのではない本」だからよいのだ、と書評に書いているし、さらには(よほど気に入ったのだろう、)テレビ番組の対談でも取り上げ、「こういう書き手がひっそりとどこかにいる」「世に出ようと思って書いた文章ではないということに、とても打たれました」と語る。『バスラーの白い空から』は、あなたの作品と似て、自分の感情に振り回されず、でもどこか儚さが満ちている美しい回想記だ。あなたが「ぎらぎらした気持」ではなく、「世に出ようと思って書いた文章ではない」というそのままが、あなたの最初の本『ミラノ 霧の風景』のことだと私は思う(この作品の初出は、オリヴェッティ社の広報誌「SPAZIO」であって文芸誌ではないし、この広報誌は年に二度しか出ない、おそらく読者も限られたものであった。『ミラノ 霧の風景』の読者の反響の大きさに、あなたは、初出の時にはだれもそんなに騒がなかったから、驚いていた)。『ミラノ 霧の風景』が二つの文学賞を受けたあとの作品群も、やっぱり「ぎらぎら」はしていないが、なにより私にとってうれしいのは、発表するつもりがなかった、あるいは、大昔に発表してからそのまま本にまとめなかった作品群こそが、まっさらに、「ぎらぎら」せず、「世に出ようと思って書いた文章ではない」ことだ。
あなたは、残された作品たちからは思いもよらないほど激しい感情の人でもあった、と友人・知人たちが語っているから、日記やメモや、親友だけに打ち明けた恋についてまで触れている私信に至るまで、丸裸にされている、私からしても痛々しいこの状況を、天上で怒って見ているのではないかとも思う。でも一方で、自分の原稿にいつまでもどこまでも自信がなかったあなただから、死後に須賀敦子ブームがおしよせ、読者が作品以外の書き物をも求めた結果、全集が出たり、何冊も関連本や評伝が出たり、というような未来を予測していたとはけっして思えず、だから、自分がちゃんと手を入れた作品群とそれ以外を分けて認識されるかぎりにおいては、あなたの生きざまの足跡として私たちがそれを享受できることを、笑って許してくれているかもしれない。
さて、そんななか、あなたがいちばん公表してほしくなかっただろうと思う、「詩集」が出た。あなたは生涯、詩に対する批評眼が大変きびしかった。イタリア文学者として博士論文に、イタリア現代詩人ウンガレッティを選び、そもそもイタリア文学は(二十世紀後半をのぞいては)小説が育たない土壌で、イタリアは絶対に詩である、と喝破している。また、あなたが過ごしたイタリアの知識人に囲まれた環境のなかで、あなたは詩の音韻やリズムについての確かな感性と知識を育てていた。たとえば、ペトラルカの詩の、音節の数や脚韻やアクセントの置き方の素晴らしさについて、「そういう工法が隠されていると判った時には、ああ、これは駄目だ、とても訳せないし、太刀打ちはできない。それでも、これが判ってよかった、生きているうちに判ってよかったと思って……」(池澤夏樹との対談、『池澤夏樹詩集成』付録)と語る。「工法」、という言葉について「たぶん建築の学生が力学というのか、工法の勉強をして初めて建造物を理解する、という感じです」という方法で、詩の形式をつぶさに理解していった。あなたの仲間であった、ダヴィデ神父の作る詩に対しても、形式面についてから辛辣な批評を行っている。「彼なりの読者層に支えられた詩人」だが、「それ(引用者注:レオパルディやウンガレッティからの影響)が本人に意識されていない分だけ作品の弱みになっている」「とくに近年の作品は、饒舌にながれ、形式の弱さがめだつ」(『コルシア書店の仲間たち』)と。
そして、現代詩、とくに日本のそれに対してはもう、うんざりしていた。
「柔らかさと詩(それは官能と詩というもう一つの私たちがうんざりしている低調な組み合わせにつながる)をとかく同一視したがってきたこの国(引用者注:日本)の現代詩の伝統のなかで」(『本に読まれて』)
「ながいこと、この国の現代詩の可能性について確信がもてなくて、こんな考えに捉われていた。いっそのこと、過去の詩人が遠い国の言葉で紡ぎあげた詩に関わっていれば、なまの痛みに身を抉られることなく、詩に浸る楽しみだけを手に入れることができるのではないか、と。そのため(中略)極力、同時代の日本語の詩に手を触れないよう気をつけていた」(同書)。ここであなたは、池澤夏樹の詩をこう高く評価する。「アレクサンドラン(引用者注:十二音綴)ふうの五行からなるほとんど完璧な定型詩」「形式が厳しく追求され、それがリズムをはぐくんで(略)」(同上)あなたにとって、詩とは、リズムや形式を持つ、建築のようなものだった。詩はきっちりとして、高貴でなくてはならなかった。池澤との対談でこのようにあなたは言う。「やっぱり、きっちりしているという感じですよね。ネクタイのきっちりではなくて、若者の裸体のきっちりさ。」「(池澤:日本の詩では、詩人であることの誇りを感じさせられることは珍しいですよね、と言うのに対し、)高貴という言葉をわたしたちは忘れてしまいましたね。」(『池澤夏樹詩集成』付録)
「(池澤:自由律であるといくらでもだらしなく崩れてしまうし、と言うのに対し、)でも、詩人と、俳人、歌人と言葉がいくつもあるので、外国人には、日本は少し変わった国ですねと言われます。どんな形の詩を書くかによって詩人の呼ばれ方が違うし、うっかり「詩人」とくくってしまったら叱られたって。この国ではポエジアというもの、詩というものがどういうふうに造られるのか、わたしたち自身にもよく判っていないかもしれない。やたらと分けるのが好きなのかな」「(池澤:いや、肩書が好きなんですよ。だから細かく分ける。に対し)でも、家元みたいなこともあるんでしょ?(笑)」(同上)日本ではポエジアがよく判っていない、というのはとても思い切った、強い主張ではないか。
「もし、俳人あるいは歌人を、詩人という言葉から隔離する習慣が日本になくて、この詩形ないし作品をより普遍的、本質的な批評言語の対象とする習慣がもっとはやくこの国に確立されていたら(略)」(『遠い朝の本たち』)ここでも日本では詩をやたらと分け、「普遍的」、「本質的」に批評されることがないことを批判している。「孤児化したこの詩形が、やがて『職業』詩人たちの手に落ち、子規自身が見下した江戸末期の俳諧師とおなじように、師と権威を結びつけることになるのを想像しただろうか。」(同上)というのも火のように烈しい批判であるし、いわゆる俳人や歌人と隔離されない詩人に関しても、「日本の詩人たちはベレーをかぶることでごまかしてた(笑)。それがわたしは嫌いだったわけ。なんだかインチキくさくて。わたしはほんとうの詩人に会いたかった。慶応にいた時には西脇順三郎さんがいて、西脇さんが向うの方を歩いているだけで、ああほんとうの詩人が歩いている、と思ったりして(笑)。とても怖くて話しかけたりはできなかったけれど。」(『池澤夏樹詩集成』付録)と話しているが、ここでほんものの詩人に祭りあげられているように見える西脇さえも、公表を前提としない私信においては、「西脇という人は、慶おう[ママ]にいたころ、一度何かのクラブで話をきいたとき、キザでいやだなと思っていたのですが、昨日のインタビューでは、記者が『先生、多くの詩人がローマをうたいましたが、先生のお作にもなにかローマを主題としたものがありましたら』とか何とかきくと、メザシのような貧弱な老詩人は、実に学校先生口調の英語で(これがオックスフォード御自慢の英語なのかとかなしいきもちでした。全く先生と言われる程の云々で、貧弱な人だとおもいました)自分の詩を大声で讀みました。その大部分はカットされて、アナが勝手なことをしゃべっていました」(『須賀敦子全集第8巻』書簡)と、まあけちょんけちょんである。
「脚韻というのも、なにか人間には本能の一部みたいにそなわっているもののような気がする」(『時のかけらたち』、ハドリアヌスの詩について)という脚韻なども、日本の現代詩においてはもうあまりたいせつにされないのだろうし(わたしの勉強不足かもしれない)、「詩の作法がきっちりとまもられていて、リズムがこころよい」(同上、イタリアの現代詩人ザンゾットについて)という詩にも出会えなくなった、とあなたは感じていたのだと思う。
ただ、あなたは形式を持たなければ詩ではない、と言っているのではない。イタリア現代詩人カンパーナについては、韻文詩の形式の弱さを「その韻文詩法が完結した形式を持つに至っていない」(『イタリアの詩人たち』)と指摘する一方、彼の散文詩を「緊迫した、たたみかけるようなリズムのうねりに貫かれた、密度の濃い、たましいの夜の世界」(同上)と称揚している(ただし、ここで散文詩においてもリズムを問うているわけだけれども)。形式やリズムの彫琢も大切なのだけれど、あなたは内容面からも現代詩について、厳しい。
「詩を、読まなくなって、ひさしい。賢しらなことばが平面を滑りつづけるふうな詩は読みたくないし、現在の世界の痛みを人類の痛みとして生きる鼓動が伝わってこない詩もわたしは必要としない」(『本に読まれて』)「この東方の島々のうえで私たちがさまざまな罪によって摩滅させてしまった言葉たち」(同上)。私たちが日本語に犯した罪、それによって摩滅させてしまったさまざまな罪はなんだっただろうか。
あなたはウンベルト・サバの詩を好んだ。「晦渋ということがひとつの特質のようになっている現代詩のなかで」、ウンベルト・サバの詩は「虚構性と形式への傾倒が強いペトラルカの系統」に属し、「一見単純」でありながら、「研ぎ澄まされた正調の抒情詩技法が駆使されていて、形式の完成度は現代詩人には稀有」、「いつもきちんとした職人の態度を失わない厳しい詩への姿勢」をもち、「詩人の独善を神秘性などと詐称して読者に押しつけたりしなかった」(『ミラノ 霧の風景』)。これがあなたの好きなサバについての評価であり、全く同じではないにせよ、特にこの形式への愛が、あなたの若いときに夢中になった上田敏や白秋や泣菫や晩翠、さらには賢治や中也や道造にもつうじていて、それらが、日本の現代詩においては失われ、ただ柔らかいだけであったり、賢しらであったり、世界の痛みと無縁であったり、晦渋なだけであったり、高貴でなかったり、きちっとしていなかったり、音楽性がなかったり、社会につながらない、内側にこもった家元みたいなことになったりしている。
これだけたくさんあなたの文章を引用したうえで(最近の日本の言葉では「これだけハードルを上げたうえで」というらしい)、あなたの「詩集」が私の目の前にある。あなたの批評眼を通り抜けて発表されたのではない、手元にこっそり残された、詩が。あなたはひょっとしたらこれらを、分かち書きであるという理由だけで詩と呼ばれることを拒否したかもしれないのに。それは、真っ直ぐに、人生の悩みと信仰についての告白だった。
あなたがまだ人生に悩んでいたローマ留学時代、大学にも属さず、まだ夫となるペッピーノにも会っておらず、あなたの人生の出発地点となるミラノのコルシア・デイ・セルヴィ書店にたどり着く前、二十九歳から三十歳にかけて、ただ漂流していた時期に、あなた自身のために書かれたこれらを、おそらくあなたは、誰にも見せなかったのではないかと思う。私信やメモ以上に、公表されるのは歯痒かったのではないかと思う。上記に引用したすべての厳しい批評眼がここへ跳ね返ってくる。もし公表するなら、改稿したかっただろう、いやむしろ、神とあなたとの間だけの内面の秘密を、文学として公表すること自体が、あなたの文学に対する厳しい姿勢に反する。だから、少なくとも「詩作品」として公表されたくなかったのではないだろうか。そう思いながらも、あなたという人生が作品だと思う私(たち)は、抗しきれずに読む。あなたが、敬愛するユルスナールの遺した自宅の、一般には非公開の二階に、こっそり案内されてしまったときのように。「(ユルスナールの自宅のシルヴァンという管理人に例外的に案内してもらって)こんなところまで入ってきているのをとがめられそうな気がして、落ち着かなかった。そして、シルヴァンたちのおかげで、この家が、まるで生き続けているようなふりをさせられているのも、私たちが、おっかなびっくりで、マルグリットのいない、でも八年まえまでは彼女の家だった場所を、<土足で>どしどし歩きまわっているのも、私にはどこか納得がいかなかった」(『ユルスナールの靴』)。本人の許しを得ずに(死んでいるから無理なのだが)勝手に私的空間に入ってしまった「申し訳ないという思い」と、「好奇心につられてじろじろ眺め」「覗いていたい気持」に「はさまれて」しまうのは、まったく、あなたがユルスナールに対して抱いた気持ちと、私が死んだあなたの詩集に対して抱く気持ちにおいて、おなじで、あまりにもおなじなのでびっくりしてしまう。そんな気持ちで読むあなたの詩は、のちの素晴らしい散文に現れる、魔術のような、思わず笑ってしまうような多種多彩な比喩は、まだあらわれていない。あの散文作品群では、あなたは友人と親密に話すように書いているように私には思われるのだが、この「詩集」においては、その友人がいない。あなたは友人ではなく、もっぱら、神と会話している。だからこそ、比喩によるユーモアや説明が必要なくなってくる。あなたの作品に張り巡らされている、登場人物たちの人間味、と言えるようなものの代わりに、ここには人間ではなく、自然が、光が、(思い切っていってしまうと、恩寵が、)ただそこにあり、それがあなたひとりに、(友人たちとの交わりのなかではなく、)あなたひとりだけのうえに、降ってきている。あなたはのちに、こんなことを書いた。若いときには、「自分がほんとうに理解できるのは自然にかかわる抒情しかない」、「自分にとって詩人になるほか、選ぶ道はないように漠然と思いこ」むほど、「自分は散文よりも詩が好きだ、という、天から降ってきた確信のようなもの」を持つほど、詩が好きだった。なのに、のちにヨーロッパの「全人間」的な考え方、「何よりもまず人間、というフランスやイタリアのことばに、さらにこれらの国々の文学にのめりこんで、はては散文を書くことにのめりこんでいった」(『遠い朝の本たち』)。詩=自然=抒情、散文=人間という図式が、あんまりはっきり分からなかったのだけど、いまあなたの「詩」を前にすると、それが、さっき言った、だれに対して話しかけているかということに関係しているようなという気がする。あなたの詩には人間がおらず、ただ、自然と光と神とあなたがいる。そしてあなたは、三十歳のときに詩を書いていた、そしてそれ以降おそらく詩を書かなかった、少なくとも、手元には残さなかった。私には、あなたが、そのころ、たいせつな宗教体験をイタリア(おそらく、《あなたの尊敬したシモーヌ・ヴェイユがそうであったように》アッシジで)受けたからではないか、そして、その経験を、敬虔に、残すためには、散文では背負いきれない、詩作による思索が必要だったからではないかと、そしてあなたは、その思索を、新鮮な形のままで、誰にも見せないでいつまでも手元に残したかったのではないかと、そんな気がするのです。
*
Ave Regina Caelorum
くちには
いっぱい
もいだばかりの桃の実の
かほりを。
あたまには
しろと
黄金(きん)との
すひかづらの
花冠(かむり)を。
この詩については、手稿の写真が詩集の冒頭に載っていて、それをみていると、「桃」の字の右側に消し跡が見える。おそらく手稿は鉛筆で書かれたものだと思う。消された漢字は「桃」ではなく、草冠のようなものが見える。面白いのは、須賀がその少し残った消し跡のうえから桃という字を始めず、まるで息を改めるように、一行開けて第二連を初めていることだ。これはほんとうに第二連なのだろうか。前半五行と後半五行にきれいに現れているシンメトリーと脚韻から考えると、もしのちに詩として発表するならば、ほんとうはそこに一行を開けたくなかったのではないか、と思うとともに、「もいだばかりの」のあとに須賀がちょっと思案したようすが伺われて、その「ひと息」のドキュメンタリー性がこの消し跡の行にはある。その思案が、漢字を思い出すためのものだったか、どの果実を選ぼうかという迷いだったかは、分からないにせよ。そのドキュメンタリー性は、この詩集ぜんたいを満たしている空気みたいなもので、それこそ、自分自身のために、自分が声に出して歌うためだけに、書かれているために、世に出ようと思って書かれたぎらぎらした感じがぜんぜんなくて、そのまったく逆の、一筆書きのような清らかさ、いさぎよさばかりが心に残るのだ。それにしてもなんという美しい筆跡だろう。冒頭の手稿写真のページと、それに続く編集された活字のページが語りかけてくる情報量(なんて言葉を使いたくないけれど)の差はとんでもなく大きい。たとえば、手稿の左端にはたいてい、日付が斜めに傾いて書かれている。それがまるで詩ではなく日記か、スケッチであるかのように。この詩の題名のように思われるラテン語” Ave Regina Caelorum”は、「聖母マリアに捧げる聖歌。ラテン語で『幸いなるかな天の女王』の意味。」という意味だと編集者注がつけられており、手稿をみると、この題名のようなものは、行頭から六文字ほど下げられた場所から書きはじめられている。つまり、高さとして「もいだばかりの」の「の」よりも下の位置から書かれている。このように、題名のようなものを、少し下げたところに置くのが須賀のこの「詩集」の手稿の特徴となっているが、実際はこのように下げられたところから書かれた一行目(題名のようなもの)を持たない作品の方が多い。そのような作品については、編集者は便宜上、一行目をカッコ()に括って題名としている。大半が題名を持たないというこの特徴も、須賀がこれらを「詩作品」として意図していないことを示すのではないかと私は思う。編集者はこれら字下げされた一行目を題名と捉え、編集では手稿が行なっている行頭からの字下げをしないで、太めのフォントを用いて行頭から題名をはじめ、三行分ほど開けてから「詩」の本体がはじまるようにデザインしている。でも、題名と一連目が三行も開いていない、須賀の手稿をながめていると、「詩」としての形態を整えるために編集者が行なったこのような編集が、須賀にとって正しいものであったのか、疑問に思われてくる。また、題名がつけられていない作品についてまで、一行目を題名がわりにして太字そして三行開けでデザインされていることがよいのか。メモのような形のままデザインしたほうがよかったのではないか。
さて、この詩の一連目はすべてひらがなからなっている。30年近くのちに、須賀が発表をし始める散文作品群でも、ひらがなが愛用されているのだが、すでにここにひらがなの多用が現れていて、私はうれしくなってしまう。後年の須賀は作品にすごくうまい言い回しを駆使したひとで、短編に必ず一つずつは埋めていくのだが、それはたいてい、ひらがなで書かれているのである。あたかも、それは「音として」ゆっくり読まれるべきだ、とでもいうかのように(そして私は「でたっ」と思う)。一方、この詩集においては、その種のパンチライン、びっくりするような比喩表現は出てこないのだけれども、その代わりと言ってはなんだけれど、歴史的仮名遣いで書かれた優しさが、筆跡の写真を見ると滲み出てきていて、それは活字では味わうことができないものだ。1959年に、歴史的仮名遣いで書かれている理由は、須賀が日本を離れてローマでひとりで書いていること、須賀が賢治や道造以前の日本語詩を愛していたこと、そして読まれるときの音としてゆっくり読まれたいこと、などだろう。
私がこの詩で好きなのは、「かほり」と「かむり」の韻を見つけたときの、うれしさがみちていることだ。また、黄金を「きん」と読ませるのも好きだ。これは須賀お得意の方法で(「でたっ」と私は言う)、後年も須賀はこれを訳詩で愛用しているのだが、これは誰かから引き継いだものか、須賀が発明したものかは分からない。色の言及が多いこともこの「詩集」の特徴である。現代詩の技巧としては、色の形容詞を並べることはひょっとして好ましくないのかもしれないけれど、もし須賀のこの「詩集」が稚拙だ、習作の域を出ないと言う人がいたとして、それがどうしたと言うのか。私は、須賀が感じていたものをはだかの目で見ることができるうれしさでいっぱいなのである。思うに、須賀についての人の反応は三つに分かれ、①まったくその人生に恋をしてしまったように全部を読んでしまう人と、②どれか一、二冊だけ手にしてなぜあんなに読者を集めているのか理解できないな、と思って積読したりやめてしまう人と、③そもそも須賀を知らない人、のどれかになるのではないかと思う。(そんなことを言ったら、どんな作家でもこう分けられるではないか。そりゃそうだ。だけど、)特に須賀について、①の人の思い入れの激しさが強く、あんまりいろんな人が須賀の文章をいいというものだから、最初グループ②に属していた私(一冊だけ、確か『トリエステの坂道』を読んで、「まあ、いいけど、あの人たちが言うほどかしら」などと思い、もう一冊、『遠い朝の本たち』の最初数ページを読んで「須賀さんのイタリア経験でなく、日本での子供時代を読むことになんの意味があるかしら」などとあさはかにも考え、そのまま十年ほど過ごした私)は、今なら、最初の作品『ミラノ 霧の風景』から入るべきだったな、思うし、他の人にはそうお勧めしたいのだが、でも、いま私がこのどうしようもない恋に陥っているのは、何度も読もうとしては失敗した『遠い朝の本たち』を通読したためで、この本は(最初の方は私には読みにくかったけれど、)最後まで読んでみるとほんとうに素晴らしく、とおして見ると一冊全体がほとんど聖書のように輝いて、間違いなく私の生涯の一冊になる、と今は自信を持って言える。『遠い朝の本たち』の美しさは、須賀の若い頃の迷いや苦しみがまっすぐ凛として立ち上がっていることで、この詩集もそれと似た空気をまとっている。『遠い朝の本たち』を諦めずに最後まで読んでみて、と言うのも、他の人への一冊目としてのおすすめとしてあるかもしれない。
Expandi manus means ad te
陽のきらきらする朝
つめたい空気のなか
すきとほった そらのしたで
両手をひろげて
わたしは待つ。ふってくる
ふってくる
あたり一めん
きいろい切口を見せた
枝の大群が
たかく にほひを
まきちらしながら
大地 めがけて
ふってくる。むね一ぱいに
ばさばさと音たてる枝に
顔をうづめて
わたしは この
かほりたかい
あいに
じっと
くちづけする
須賀は後年、イタリア詩の訳をするときに句点を多用することがあって、それが面白いと思っていたら、実際に自分でも使っているのを見て、あっとおもった。実際には訳詩では、読点もよく用いていたが、この「詩集」においては、読点は数箇所しか使われていない。少なくとも、編集されて活字化された形では、そうだ。一方、手稿には読点のように見える黒点があるようなのだが、モノクロ写真なので、紙の汚れに過ぎないのかもしれない。それは実物を見ている編集者にしかわからない。編集で読点を削除している可能性はあるものの、読点の使用は非常に限られていることに変わりはない。さて、読点の代わりによく用いられているのはスペースだ。編集者はこの詩において、私が手稿からスペースを置きたい気持ちになってしまった、「大地 めがけて」と「わたしは この」のスペースを、置いていない。たしかに、手稿において、これらの空間は、編集者もスペースを置いた「たかく にほひを」の空間に比べたら、小さい。だが、そこには半角ぐらいのスペース、と言うよりも、筆を置くときの息が、込められているように見える。流れるように美しい須賀の字から伝わって来る、息のようなもので、それは多くの情報量を持っているのに、活字になった途端に何か、急にこの詩の魅力がなくなってしまう感じがする。また、上の引用ではスペースを置かなかったが、「ばさばさ と 音たてる枝に」の、ばさばさ、と言う擬音のあとと、助詞「と」のあとに、それぞれ小さな間隔があけれられており、そこにもやはり須賀の声が、ひと息おくのが聞こえる。
題名”Expandi manus means ad te”は、編集者注によると、「ラテン語で『わたしはあなたに向かって両手をひろげ』の意味。『詩篇』143:6より。」とある。その通りに両手をひろげたうえで、須賀は「待つ」という、そこに私は動かされる。須賀は、生涯において迷い、そのときベストだと思う方向へ、須賀の言葉で言えば「あさはかに」、がむしゃらに行動した人だが、一方、「待つ」人でもあった。自分の中で言葉が、記憶が成熟するのを待ち、自分の文体が出来上がるのを待った。ここでは、神が、あるいは神が造った自然が、「ふってくる」のを待ち、それに「じっと」くちづけをする、と言う、須賀と神との間のしずかな会話がある。「すきとほった そら」はイタリアの、あの特有の抜けるような空のことだ。ずっと昔、私がローマの友人の部屋に泊まっていたとき、屋上に上がって友人がTシャツを干すのを見た。真っ青な空に、真っ白なシャツがはためいているのを眺めていると、記憶のなかのありとあらゆる青空が色あせていき、この青空だけが記憶に残ればいいと思った。「あんな青い空の下で君が洗濯している」という俳句未満みたいなものを書いた。須賀も、パリの暗い空と比較して、イタリアの濃い青色の空の魅力についてよく書いていた。「最初に勉強に行ったのがペルージャでして」と、辻邦生との対談で語っている。「空の青さを見ただけでもう、いかれてしまったんです(笑)」
詩の形式に関する厳しい批評眼は、1960年にジェノワで出会うコルシア書店の知識人たちとの、詩をめぐる対話の中で育まれていったように須賀は書いている。1959年にローマで書かれたこの詩で、「ふってくる」を三回繰り返すのは、おそらくのちの須賀本人にも稚拙と映ったかもしれないが、きいろい枝がふってくる様子をそのまま写しとっていてその純粋さが、爽やかだ、と私は思う。それに、「ふってくる」という言葉には、須賀が後年の作品や対談でもずっと愛用した促音あるいは促音便への愛着も見られる。須賀の促音の独特の使用は、後年のエッセイにリズムを、そしてユーモアを与えることになったものだ。「むね一ぱいに」というひらがなと漢字の選択、そしてまた促音も、その幼さが魅力的で、須賀の言葉を借りると「まだ眉のあたりにすずしさの残る少女」(『時のかけらたち』)みたいだ。これは、須賀が「イタリアにはめずらしく純粋な」「典雅な修道院」サンタ・キアラを形容するときに用いた表現だが、ほとんどこの1959年のローマ留学時代の須賀自身のための言葉みたいだ。さらに、「あい」という言葉を使ったことには、驚いた。60歳で遅咲きの作家としての須賀は常に知的で慎重なイメージがあって、ストレートに愛という言葉を使わなかったように思う。そのぶん、29歳で書かれたこのまっすぐさを、うちに秘めていたことを知って、大切なものを密かにしまっておいた小箱を勝手に開いてしまったみたいで、申し訳ないやら、うれしいやら、となる。「この/かほりたかい/あいに/じっと/くちづけする」というリズムとフレーズを私は忘れないだろう。編集者は、最後の「くちづけする」に句点をつけて「くちづけする。」としている。でも、巻頭の手稿写真に句点は打たれていないように見える。おそらくは、第一連と第二連の最後に句点が明確に書かれているから、一貫性のために編集者は、それらに合わせて最終連の最後に句点を追加したのだと思われるが、私には、須賀が手稿で「くちづけする」のあとを句点で閉じず、ただ、しずけさへと開いておいたことが、たいせつなのではないかと思う。
あゝ
とうとう
おまへは
また
やってきた。
無限のひかりと
草を焦がす熱と
水底の靜けさの晝(まひる)をつれて。
私はふたたび
すべてを
しっかりと
両手に にぎりしめ
菩提樹の香に咽せながら
燃えさかる
大地に
うっとりと
立つ。
無題の詩。活字版の題名「(あゝ/とうとう)」は手稿にないため省略した。引用のスペースの置き方は、活字版に合わせた。だが、またしても半角スペースのような小さな息のようなスペースが、至るところにある。「無限の ひかりと」や、「水底の 靜けさの 晝を つれて。」や、「私は ふたたび」や「菩提樹の 香に むせながら」といった、四音節ずつ、あるいは五音節ずつの息の入るところにそれは存在しており、やはり、手稿の写真を読むときの美しさが、活字になると色褪せてしまう。冒頭、訥々と少ない言葉で行が切られ、つぶやかれている感触が、とたんに「無限」という言葉を引き連れて、そこが晝(まひる)であることを知る部分は一行が長くなる。この、まひると読ませる読みも、須賀が他に訳詩で使っていたような記憶がある。「ふたたび/すべてを/しっかりと/両手に」の、何度も波が寄せるように確かさを求めて「にぎりしめ」にいく感触が、冒頭のゆっくりさと呼応していて美しいのだが、その遅さは、末尾「大地に/うっとりと/立つ。」で、陶酔と恍惚の極みに達しているように思う。でも、ここには句点が打たれていて、溺れずに両足で、立っている。でも、うっとりと!
同情
つめたい秋の朝の
ラッシュアワーの停車場前
がつがつとパン屑をついばみ
せはしげに まばたきして うずまく
靑、灰、緑の
鳩の波に
ひとり 背に 首をうづめて
うごかぬ おまへ
セピアいろの 鳩よ。あゝ
わらっておくれ
うたっておくれ
せめて みなにまじって
わたしを安心させておくれ。(いろがちがふからといって
なにも おそれずとよいのだ。)主よ 一羽の鳩のために
人間 が くるしむのは
ばかけてゐるのでせうか。
ヴィクトリア・ステーションにて
ヴィクトリア・ステーションはロンドンの駅。(1959年の夏、須賀はローマから離れて、数ヶ月ロンドンに滞在した。)「ついばみ」の下に、読点に見えるような跡が手稿写真に見える。それは編集で活字化されている「青、灰、緑」の読点の形に大変似ている(それにしても、また色を表す言葉を須賀は使っている)が、手稿はモノクロ写真のため、編集者が削除したものか、紙の汚れだったのかはわからない。似たような黒い点がついばみの「ば」の右下にも見えるから、紙の汚れなのかもしれない。一方、スペースも多用されており、須賀の手稿は原稿用紙に書かれているのではなく白紙に書かれているため、文字間の空間が、活字化したときにスペースになるものと、ならないものが出てくるが、スペースの有無というデジタルな差異ではなく、どちらかというと息の吸い方に似て、長い息があれば短い息もある、その長さに、あけられた空間は対応しているように思う。それにしても、「人間 が くるしむのは」の人間のしたにあけられた空間のながさに私ははっとする(編集では「人間」の下のスペースは一つ分にされているが、私には一つ半ぐらいには見える)。須賀にとって「人間」という言葉がいかに重要だったかを思い出す。須賀は日本で見つけられなかった「全人間」という問題を追って一度目はフランスへ、二度目はイタリアへ渡った。それほどに、人間という言葉は須賀にとって重かった。ロンドンで、ひとり見ている一羽のいろの違う鳩のためにくるしんでいる須賀という人間は、もちろん日本人という肌のいろの違いも背負っていながら、セピアいろの鳩に重ねているのはそれだけでなく、ひとと違うものの見方をしてしまう(あるいはしたいと考えてしまう)、そのため日本でおとなしく親の勧める結婚もせず、かといって結婚しないカトリック女性が選ぶ唯一の道とすら言えた修道女の道も選ばず、しかしながら勉強をしているものの教授になりたいわけでもない、という、悪い言い方をすれば終わりのない自分探しのようにも思われる、果てしない苦しみの道行きを鳩にかさねている、そして神に、主に、「これで良いのでしょうか」と問うているような気がする。須賀のまわりには、だれひとり、(少なくとも日本人は)、須賀の生き方にYesを、Ouiを、Siをいってくれるひとはいなかったに違いない。いや。数少ない親友だけは…須賀が最後の作品『遠い朝の本たち』の、最初と最後の章を捧げた「しげちゃん」は、こう言った。「だいじょうぶよ、私はあなたを信頼してる。ちょっと、ふらふらしてて心配だけど、いずれはきっとうまくいくよ、なにもかも。」この全肯定を須賀は人生で何度も思い出した。高木重子は戒律の厳しいカルメル修道会の修道女の道に進み、大学卒業後須賀と対面できたのは(須賀の作品を信じるなら)一度きりだった。手紙も頻繁にやりとりできなかったようである。神のために自分の人生を捧げた高木重子が、須賀敦子がひとり、他のひとたちと違う道をいくのを、ちょっと、ふらふらしてて心配だけど、と言ったときの同じ視線を、須賀敦子はいろの違う鳩に向けながら、主と会話する。「なにも おそれずとよいのだ。」は、かつて高木が須賀にいったことばと同じであり、須賀が須賀自身に言い聞かせていることばでもあり、もしかすると主が須賀に言っていることばであるかもしれない。須賀という鳩が他のひと(鳩)と違う道を選んでみずからくるしんでいるのは、ほとんどの人から見れば「ばかげてゐる」ように見えただろう。須賀自身、このひとと違う道行きを、「おそれずとよいのだ。」と自信を持って言えるようになるのに、これから30年かかったのではないだろうか。あの深い教養と知性と感性をもった須賀さんでさえ(、であればこそ?)、こんなにもくるしかったのだ、ということが、この詩の書かれた60年後を生きる私の頭を垂れさせる。
アマンテアでは
カラブリアの
アマンテアでは
陽ののぼらぬうちに
娘たちが
素足を
草の露に染めて
手かごに
桃をつむ。
母親たちは
朝いちばんの
まだ あたたかい乳で
籐の匂ひも あたらしい
雪いろの
生チーズをつくる。
リヴィアは、
栗色の髪の
夕星の瞳の
リヴィアは
寢床から跳ねおきて
ひかりの靑い海辺に
いちもくさん
かけてゆく。
アマンテアの海に。
無題の詩。と言いきっていいのか、私は少し悩む。巻頭の手稿写真を見る限り(全44篇中、7篇しか写真は載っていない)、須賀は詩(のようなもの)に題名(のようなもの)をつけるときに、行頭を数文字分下げるようにしていたようである。編集者はそのルールにしたがって、題名をつけたり、無題の場合には一行目に()をつけることで題名の代わりにしている。編集者はこの作品の題名を「(アマンテアでは)」とした。この詩の一行目「アマンテアでは」は、二行目「カラブリアの」のカの字より、0.3字ほどではあるものの下がっており、これが題名だと考えてもいいかもしれない、とふと思う。でも、行空きはないから、題名ではないのかもしれない。でも、たとえば「いひわけ」という作品では、手稿は「いひわけ」という一行目を字下げをしつつ、一連目(あるいは二行目)は「いひわけ」との間に行をあけずに始まっているから、行空きがないことだけをもってこれが題名ではないとも言えない。しかし、もしこれが題名でなければ、「アマンテアでは」という七文字は、一行目と三行目に、あまりにもすぐに繰り返されている。こんなことが、一行目が題名でなかったとして、ありえるだろうか。
私は、こうやってこの詩の題名の有無を考えながら、結論として、これは題名ではない、という立場に立ちたい。写真が冒頭に載っている7篇のうち、この「(アマンテアでは)」が他の6篇と大きく異なる点が、二点ある。一点目は、見開きにおさまらず、本では3ページに渡っていること。(おそらく)二枚の横長の紙に書かれていて、「夕星の瞳の」が一枚目の最後の行になっている。二点目は、この手稿の筆跡が少し汚く、荒れており、速く書かれているように見える、ということである。特に冒頭の三行は、やや斜めに向いており(右上から左下へかけて)、他の6篇のゆったり流れるような須賀の美しい筆跡ではない。興奮して素早くスケッチしているかのようだ。その後、筆跡は落ち着きを取り戻すように見えるが、「雪いろの/生チーズをつくる。/リヴィアは、/栗色の髪の/夕星の瞳の/リヴィアは」あたりで、再び字が少し乱れ、行が少し斜めを向く。これはなにを意味しているのだろうか。
須賀はこの詩を書くときに、興奮していたのだと思う。須賀は、ローマの学生寮の若い友人(まだ17、8だったと思う)リヴィアの故郷について、そのアマンテアという音の美しさについて、後年の作品で触れていた。アから始まりアでおわる、この丸い甘い響き。全集の年譜を見る限り、おそらく須賀は訪れていない。ただその憧れのアマンテアを、リヴィアの家を、訪れた夢について、ずいぶん後になって作品で書いた。1959年にリヴィアに会ったときに覚えたその名前に対する、まだ新しい感動が、ここに響いていて、その名前の響きが須賀に与えるイメージ(それは、遡ること6年、1953年にパリに向かう船の中で見たカラブリアの海のこと、メッシーナ海峡の色に感動したことを思い出しながら膨らまされたイメージかもしれない)を、素早く、字の美しさなどにわき目もふらず、スケッチとして描きとめたのではないか。だからこそ、「アマンテアでは」という行は、こんなにもすぐに、繰り返されたのではないか。それは、リヴィアの名前についても同じことが言える。文字が再び乱れはじめる「リヴィアは、/栗色の髪の/夕星の瞳の」そして二枚目に移ってから、また「リヴィアは」と続く。リヴィアを近い行間で二回繰り返すのも、ページを改めたからもう一度言いたかったのかもしれないけれど、やはりリヴィアという名前が好きだったのだろうと思う。私が打った読点(「リヴィアは、」)は編集では打たれていない(紙の染みだったのかもしれない)が、「靑、灰、緑」のときの黒い丸い小さい点と、同じ形をしている。私は、これは読点だったと信じたい、スペースや改行では表すことのできない、走り出した須賀の足取りを、読点で速く息継ぎしたのだと私は信じたい、そうでなければリヴィアを二回繰り返すことの意味が、減ってしまう。
この、単に同じ言葉を繰り返すということから生じるリズムは、なんだろうか。頭韻や脚韻と言ったものからはるかに遠い、衝動的な、本能的な、ただ、美しい言葉を繰り返し口にしたいという欲求が、須賀の筆を走らせる。須賀のヴィジョンを広げていく。2枚目に移ってから須賀は、まるで殺し文句みたいに、「いちもくさん」というひらがなに開いた言葉を、こどものように歌い、そしてまた、アマンテア、というお気に入りの地名を最後に置いて、句点で閉じる。リヴィアはいちもくさんに海へかけてゆく。とおく、句点みたいにちいさくなって。
須賀は、作家人生において、遠藤周作のようには、主と自分の関係を、書き物としては残さなかった。少し先に同時期にフランスに留学していた、しかも狭い夙川という同郷の遠藤周作の作品について、おそらく彼女が抱いていた批判や不満を、日記や書簡に残してもいない。死によって残酷に中断された小説「アルザスの曲りくねった道」で、須賀ははじめて宗教を自分の文学の中で取り上げようとし、編集者に、「遠藤周作さんが『白い人』で書いた世界の、その後を私は書かねばならない」と言ったという。それがどのようなものであったかは、誰にも分からない。須賀が自分と詩との関係をどのように終えるつもりだったかもわからない。もうずっと、書くことはなかったかもしれない。小説においても、この詩集のような独白はなされなかっただろうことは違いない。でも、アルザスの少女が宗教の道に引き寄せられていくときに、たぶん、この詩集であらわされた眉のあたりの涼しさのようなものを、必ずそこで表現していたに違いないと、私はなんとはなしに、思う。