circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

問うべきなのは、狂うのがまともな人間の反応である世の中だというのなら、一に、今狂っていない人は狂っているのか(あるいは感性が摩耗しているのか)という軽蔑について、あるいは(狂っているくせに、或いはだからこその)選民思想についてである。世の中はそんなに誠実でない人に溢れているはずがあろうか。そして私は逆になぞの選民思想の中で甘え歪んでいるのではないか。生きるという枝別れの中で、生きがいやコミュニティや信頼にたどり着く人もいれば、辿り着かなかった私もいて、それは半分は運、もう半分は持って生まれた資質(それを感性と読んでも甘えと呼んでも)、そしてあるいはあと半分(これで三分の一ずつになった)は行動や努力ではないのか。この三つ目については私は不能である。

問うべきことの二個目に、もし狂うのが当然の世の中だと言うのなら、なぜそれを変えようと動かないのか。これは先ほどの三つ目の問題と直結する。活動家として不能だからである。わたしは何もできないからであり、私は人と動く、あるいは人を動かす、あるいは協力して動く、ことができないからである…不能な感性は死ぬしかないのか。向かない、と思いながら動いてみたこともあるが、向かないことは続かない、できない、習慣化できず、意思も続かないし弱い。

斜めから世の中を見る、そして動かない、もともと貧弱だ、と言う条件が揃った人間に対して世の中は厳しい。せめて強靭に生まれていればよかったのかもしれない。しかし、わたしは何度も問うのだが、仕事ができないことは悪なのだろうか?弱いことは悪なのだろうか?小学校の時にみたいじめに関するビデオで、いじめについての話し合いが持たれ、いじめた者はいじめに反省する一方、虐められたがわがなぜか、自分ももっと明るく、みんなと話すようにすればよかったと反省していた。私は強烈な吐き気がした。犯罪において被害者が一ミリの反省もする必要はなく、犯罪において話し合いなどが持たれ本人が解決のための発言を強いられることはない。必要なのは犯行者への罰と矯正のみである。内気である自由があり、内気であることは美点でもありうる。暗いことは美点である。美点である資質をそれを行動でそして努力で矯正すべきではない。

そして曲がったままわたしはある。