circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

(おそらくは)しあわせについて

 

萩尾望都さんの「半神」をまねて
展開は正反対を行くがたどり着くのはたぶんおなじところ
 

登場人物
わたし:わたし。醜い。ぼくがきらい。
ぼく:ぼく。かわいい。わたしが見えない。
 
あらすじ
 
●わたしはぼくとつながっていてぼくのことがきらいなのでぼくのことをころそうとしたりするがわたしはわたしじしんのこともきらいなのでぼくをころすまえにわたしをころさなくてはいけないとかんがえた。
 
●ぼくがまえにでてくるときはいつも世界はたのしい。ぼくをみんなは愛してくていれる(と無邪気に信じている)。うしろでわたしはぼくを憎んでいるがぼくはそのことをしらないでいる。とてもしあわせだとおもっている。
 
●わたしはいつもくるしい。世界はわたしを愛してくれない。わたしはわたし自身を嫌いだしぼく自身を嫌いだ。そんな人を誰が愛してくれるのか。わたしはいない。ぼくはいるけれど、わたしはいないも同然だ。そしてわたしがいるかぎりぼくはわたしに縛られて幸せになれない。なぜなら、ほとんどのじかんはわたしであって、ぼくではないから。ほとんどのじかんは、孤独であって、孤独なときにはいつもわたしだから。いつでもぼくでいたい。いつでも、無邪気で、自分を嫌わないぼくでいたい。
 
●わたしはぼくとわたしを切り離す手術をして、手術をするとどちらかが死ぬのだけれど、わたしが死のうと思う。わたしはこれ以上生きていて幸せなことはなにひとつないけれど、ぼくはこれからしあわせなことしかないのだから。
 
●そうしてきりはなされた死んだわたしのために、ぼくはうたを歌う。死んで初めてぼくにはわたしが見える、ぼくを愛して憎んだ一番近い存在だったわたしが見える。ぼくは「有る」でわたしは「無い」であった。わたしは死んではじめて「有る」になり、ぼくは自分への批判眼を喪う。
 
●ぼくはいままでじかんをあまり使ってきたことがなかったので、得意げにいろんなことをはじめる。ぼくは自分が天才だと思う。なんでもできてしまう、と思う。できなかったことは人のせいにすればいいと思う。ぼくのせいじゃない。ぼくはかわいいからみんな助けてくれるし、失敗したらみんなが助けてくれなかったのが悪いんだと思う。それで、いろいろ失敗も成功もするけれど、いつも幸せな気持ちでいっぱいだ。
 
●ぼくはせかいの中心にたって、「ぼくはすごいんだぞ」という。ぼくのすごさをぼくは知っていて、知っているつもりでいて、実際は信じているだけである。そのうち、かわいかったぼくの顔はわたしのように醜くなっていくが、ぼくは自分を省みることができないので、気がつかない。ひとたちはぼくからどんどん去っていくが、それにも気がつかない。ぼくをあわれむ少数の人と、ぼくをいまだに信じてくれる少数の人が、ぼくの一人芝居を助けてくれている。そしていまだにぼくはしあわせでいる。せかいがぼくをみとめないのなら、たぶんせかいが間違っていて、ぼくがただしいのだから。
 
●わたしの体(physicalな)は「有る」化したけれど、わたしの魂(spiritualな)はあいかわらず「無い」であり続けていた。わたしの「体」が死んだ後、わたしの魂はせかいを分散して、うようよしていた。いろんな人の体に触れて、いろんな人の魂に触れて、わたしってそんなに悪くなかったのかな、と思い始めていた。しかし、同時にわたしはいつまでもぼくをみていた。そしてある日、わたしはぼくを助けなければならぬ日が来たと悟り、徐々に集まり、固まり、大きくなり、はじめてわたしは「有る」化した。
 
●そのころぼくははじめて孤独をしっていた。まわりから人が消えた。そこにわたしが現れて言った「馬鹿野郎」それがぼくがはじめてわたしを認識した言葉だった。ぼくははじめて自分を見返すことを知った、なぜならそこにいるわたしはぼくであったから。いまや醜い二人であったから。ぼくはわたしにはじめて「馬鹿野郎」と言った。ぼくははじめてわたしを憎んだ。しかしわたしはもうぼくを憎んではいなかった。醜いたましいと醜い体をもう憎んではいなかった。
 
●その日、わたしはぼくに、はじめてこころをひらいたのだ。わたしは透明な姿で世界中の人たちを見て歩き、「自分を好きであること」と、「自分を嫌いになる」ことの、両方の大切さをぼくに説いた。両方があって初めてバランスの取れた人間になれる、といった。
 
●ぼくははじめてぼくを見つめる視線を持った。そのときわたしは消えた。わたしはまたぼくになりぼくはまたわたしになった。まえとちがうのは、ふたりともがふたりともを認識しているということだった。ふたりともがふたりともを、認め合っているということだった。
 
 
 
Hさんとの会話の後で