circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

やわらかさのためにいきている。たぶんそうなんだとおもう。ぼくはやわらかさのためにいきている。ゆめはかなえるものではなくてみるものだとおもうほうだ。ゆめをみながらふわふわとあるいていて、いつかふとしぬんだろう。げんじつをみたくはないのかもしれない。わからない。


ぼくの性格は、そもそも2分法が嫌いな性格だし、AかBかどっちかだ、と言われれば、進んでCを探す性格だったし、これからもそうだろう。人生で岐路に立ってどちらかを選択せよと言われたときに、ぼくは立ち止まって第三の道を探してしまう男だ。男と書いたけれど、ぼくは自分を男だと認めることに躊躇を覚える。ぼくはぼくに対して男と言うものを押し付けてくる世の中を憎むし、男は男らしくあれというような人間を軽蔑する。アンビギュイティを愛する。より弱いものを、より少ないものを愛する。竹を割ったような性格というものに憧れもするけれど、ぼくはどうしても豆腐のような人間なので、割ろうとしてもどこまでも崩れたり逃げたりして2つには割れない。割り切るのが苦手だ。捨てるのが苦手だ。そういう自分が結局は好きだ。男であるということを押し付けられると、ぼくはどうにかして女性的になろうと努力してしまう。髪の毛を伸ばしてみたり、やわらかくあろうとしたり、しなやかにうごこうとしたりする。


実無限という立場をはじめて世の中に打ち立てたカントールは、その自分の理論に自信がもてず、理解されたい人に理解されなかったりいじめられたりして、精神崩壊を経験し、精神病院を出たり入ったりして、結局地方都市ハレの精神病院患者として一生を終える。無限という実体の無いものを実体のあるものとして捉えなおすカントールの実無限は、多くの矛盾を巻き起こし、カントールの人生を苦悩の連続にする。それでもカントールが実無限に拘ったのは、思惟の対象となるものすべてを実在のものとして数学的に捉えたいという願いがあったのかもしれない。しかしそれは実に鬱な世界だった。無限というこの世には存在しない、人間の頭にしか存在しないものを、全てをご存知の神が一気に与えてくれたかのように、実在のものとして捉えると言うこと。それは、極限の理想主義のようにも思える。現実には存在しないユートピアについて、それを現実の中で語ろうとすること。そうすれば、現実という実在を見たときに、理想とのギャップをどうしても埋められずに鬱になることは目に見えている。


ぼくはゆめはかなえるものではなくてみるものだとおもう。しかしめがときどきさめてげんじつをみつめてしまうことがある。ときどきではなくてひんぱんにある。そんなときぼくはしのうとおもう。ときどきではなくてひんぱんにそうおもう。


下手をすれば鬱思想である実無限にたいして、可能無限派は無限を認めつつ、それは現実世界での試行の上限の無い繰り返しだと捉える。一回一回の試行で、確実に何かに近づいていく。その限界が、かぎりなくのびていくということ。しかしその限界は、あるひとつの値に収束することはない。いつまでも近づいていくことをやめない。これはとても健康な思想ではないか。


ゆめはみるものじゃなくかなえるものだというひとがいる。そんなひとはつまらないとおもう。ゆめをかなえてしまったあとにのこるのはいったいなんなのかとおもう。つぎのゆめがでてくるというのなら、まえのゆめはなんだったのだろう。ぼくにとってゆめはそんなにつぎつぎとシャツのようにぬぎすてられるべきかるがるしいものなんかじゃない。げんじつでじつげんしてつぎつぎすてられていくようなゆめならばさいしょからゆめみたくはない。あるひとがむこうからあるいてきてぼくにささやく。ゆめはみるものでもかなえるものでもない、と。ちかづくものだ。と、そういってさっていく。ぼくはそうなのかもしれないとおもう。ゆめにはいつまでもちかづいていけるだろう。けれどもいつまでもかなうことはけしてない。ゆめをいだきつづけながらいきることはかのうなのだ。それはまえのゆめをつぎつぎとけしていくことではない。いつまでもりそうにちかづいていくことはできる。りそうとげんじつにギャップはいつもあるけれど、そのギャップはどこまでもちぢめていくことはできる。うまることはえいえんにないだろう。うめてしまえば、つまらない。うまらないままに、うめようとあきらめずにつづけること、それがいきるということだ。じさつするということは、ちかづくということをやめてしまうことで、それはいちばんゆめからとおいばしょへいってしまうことになる。


実無限でも可能無限でもない立場に有限主義がある。これは無限を認めない立場だ。あるいは、これを人生の立場に翻訳すれば、おそらくユートピアを求めない立場、夢を追わない立場だ。現実主義とも言う。ぼくはこのたちばがじつはだいきらいだ。りそうは、にんげんのそんげんだとおもう。できればおなじりそうをきょうゆうできればいい。りそうをきょうゆうすることは、りそうのじつげんをきょうゆうすることよりはずっとかんたんなはずなのに、それをあきらめてげんじつしゅぎにはしると、みんながかたくなになり、けんかをはじめ、じぶんのげんじつせかいでのとりぶんをあらそうことになる。ジョン・レノンのベストアルバムの日本語解説を書いたライターは、Imagineのことを、理想主義にたいするジョンのよくできた諧謔精神だと書き、それを高校時代に読んだ私は、こいつは一度死んだほうがいい、と思った。


想像して


想像してごらん 天国なんてないと やってみてごらん 簡単なこと 足下に地獄はなく 頭上にはただ空だけ
想像してごらん すべての人が今日のために生きていると

想像してごらん 国家なんかないと そんなに難しいことじゃない 何かのために殺したり死んだりする理由はなく 宗教もない
想像してごらん すべての人が平和のうちに暮らしていると

想像してごらん 所有などないと できるだろうか 欲張ったり飢えたりする必要がなく 人がみんなきょうだいであると
想像してごらん すべての人々が世界を共有していると

君たちは僕を夢想家だというかもしれない だけど夢想家は僕ひとりじゃない
君たちもいつか僕らに参加してくれないだろうか そうすれば世界はひとつに結ばれると思う



高校時代からぼくはこの二連目と最後連が忘れられない。ジョン・レノンは「自分がDreamerであるかもしれない」、といってから、それを否定しないのである。きみは僕を夢想家というかもしれないが、いや、ちがうんだよ。とはいわない。否定しないで、「でもそれはぼく一人なんかじゃない」と言う。そしてきみがそのきみの言うところの夢想家に加わってくれれば、いつか世界は一つになるのだと言う。これは空虚な理想主義ではないと思う。自分の利益を投げ打ってより良い世界を共有したいという思いはみんなにあるはずだし、その理想の共有を目指したうえで、現実をその理想に漸近させていくというのは、非常に健康的な理想主義だと思う。理想を掲げずに現実に対処していくのみならば、国境はますます軍備され、欲と飢えの局在化が進む一方になってしまう。でもそうなっていないのは、どこかで人類の理想主義が正しく働いているからで、その力を信じて推し進めることができれば、よりよい世界に近づいていけるはずだ。きみはぼくのことを世界系とか中二病とか言うかもしれない。だけど、世界のことを考えず、自分の中に中二のころの熱い眼差しを持たないで生きるならば、どうして自分の純粋を貫けるだろうか。