circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

無氏「言葉とはなにかを説明するものです。美学がやっているのはそういうことです。ある対象がある。ある美がある。それを説明すること。「言葉にならない」といいながらそれでもそれを表現する力がある人間が優れた美学者です。私は詩が自立する姿を想像できませんある例外を除いては。詩は依存して初めて立ちます。絵を見る。絵を説明する。ただ説明するだけでは散文になるので、その感動を脱臼・骨折・改行などしつつ説明する。するともうそれは詩と言えるでしょう。ある音楽を聴く。感動する。その感動を説明する。脱臼・骨折・改行などしつつ、普通の散文ではなく、たとえば、たとえばの話ですよ、音楽のように詩を書く、音楽に肉薄する文体で(音楽が文体ではないのでこれはひじょうに観念的な話をしています。たとえば映画的文章とは何か、文章で映画に肉薄する、追いつこうとすることについては、誰かが話していますね)。あるいは生活に依存するというのもあります。そうやって詩は立ちます。詩はけして詩だけでは自立しません。詩人が自分の詩を解説したがったり、むしろその解説のほうが(あらゆる意味で)面白かったりするのはそれが理由である。ただ先ほど言った唯一の例外は、詩における言葉の異質性(生活的でないという意味で、あるいは普段見ないと言う意味で、あるいはふつうのひとの言葉遣いではないという程度の意味で)である。否、「「ある日本語の単語」の異質性」である。もはや説明できない「不思議な「日本語の単語」」を立ち上がらせること。日本語の美しさによって立つこと。耳に、そして漢字やひらがなの形を見る目に拠って立つこと。しかし私にはそれはただひたすらにナショナリズムだと考えます。つまらない。日本人にしか楽しめないしかも端っこのほうの要素で楽しんでいるのです。つまらない。日本で生まれ育たない限り分からないであろう数ミリの薄膜の差異を楽しんでいるに過ぎないのです。そんなのは無内容だ。そうして私は自立する詩を断念するに至りました。詩に残されているのは他対象の鮮烈な説明という役割だと考えるに至ったのであります」

(2004/10/29

覚えている限りではこの文章はユーリさんとの会話に触発されて
出てきたような記憶があります。
マウスパッドに書かれた海辺の水着の女の人の話だったか、なにかそのようなもの。)