circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

ブログ、インスピレーション、インスパイヤ

  1. インスパイヤが重要です。触発が重要です。当たり前です。モーツァルトが天才だからといって、砂漠で一人だけでモーツァルトを育てたら、彼はなにも作れなかったか、すくなくとも今のモーツァルトの作品は作れなかった。モーツァルト以前に、バッハがいて、ハイドンがいたから、その音楽を聴いて育って、それに触発されて、作品が出てきたんだよね。当たり前だよね。一人だけでは遠くへ行けない。
  2. インスピレーションが重要です。CDとか聴いてて、いい曲だなあ、ハッ!というこのスタンス。でもたいていそういうインスピレーションは忘れてしまいます。それを固定化するために、ノートにつけるのがいいんだよね。でもそれは他人に公開してはいけない。それは隠しておくべきものです。どういう形になるかわからない、ムーピーみたいな不定形なものを、他人に公開してはならない。それを公開するということは、不定形ムーピーを固定化してしまうということです。あたしのなかでムーピーをある形にしてからじゃないと、公開して固定してはならない。公開した時点で、自分の中で、釘を打ってしまうんですね。
  3. だからブログはいけない。だから、ブログで詩を書こうという試みはだめだ。だから、ブログでインスパイヤされることも多いけれど、そのインスピレーションはブログにメモしちゃだめだ。いや、もっと正確に言うと、パブリックブログにメモしちゃだめだ。インスピレーションの固定化はプライベートモードブログにすべきだ。


インスピレーションについて多くを語らない人のことが好きです。あたしはいまだに一人のなぞな詩人のことを、特別に愛しています。何を考えているのかわからない人。たぶん本人が自分で何を考えているのかうまく把握できなくて苦しんでいるような人。高橋悠治的文脈で言うと、「その場(聴衆、共演者)その一瞬の/何が出てくるかわからない/賭けのような偶然性/の幅/のコントロール(修飾体で書いていますが、/で区切ったすべてのキーワードが同等に重要です。修飾語が弱く非修飾語がつよいという日本語のルールはここでは無視してください)」が、ひとりで(!)できてしまうひと(ふつうそういうことは複数人必要だと思うのです)。彼女は詩人ではありません。彼女はだから詩人です。彼女が詩を書くから詩人なのではなくて、彼女が詩人だから彼女が書くものは詩なのです。いいえ彼女が詩なのです。彼女がサイコロなのです。サイコロは美しいです。美しいひとが好きです。彼女は多くを語りません/おそらく語れません。簡単に言語化しない、インスピレーションを現実世界に書き出して固定化しない、脳内で不定形としてムーピーのように育てている、そんな彼女のあり方にあこがれます。たとえ彼女がもう何も吐き出さないとしても、彼女の中に何かがある限り、わたしは彼女にあこがれつづけるのだろうと思います。