circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

シャンタル・アケルマン/家からの手紙

10番街を北上する 延々と続く移動撮影 私のニューヨーク 3ヶ月しかいなかったけど この辺りはたくさん歩いた たくさんというのは嘘 でも歩いた ポート・オーソリティのバスターミナルへと上がっていく立体道路 あの螺旋が上がっていくのを10番街を北上するカメラが捉えたとき やっと探していた何かを 知っている何かを見つけて 叫びそうになった 寒かった冬の日の 来なかったバス わたしのたくさん歩いた それは本当にたくさんあるいたヘルズ・キッチンだった(何という名前)  夢のニューヨーク ニューヨークに行きたいか 小さい時からそう 一年に一回叫びかけられて育ったら ニューヨークには行きたいと思ったものだし 夢があるんだと思った 実際の私のニューヨークは 強烈な抑圧のなかで 語学学校で点数を伸ばさないといけない羽目に陥って ノイローゼの中で彷徨い歩いた よく覚えていない小さな古い町 何者でもない私は何者にかなれそうな気がして 結局何者にもなれなかったのだが 何者かになれそうな気がしてニューヨークに来る何者でもない人たちの気持ちを 共有することはできた それは確かなこと それだけは確かなことだ シャンタル・アケルマンがこの映画の元となる手紙を母親から受け取っていた頃、シャンタル・アケルマンはまだ何者でもなかった(1971-73、21-23歳か)。だれもシャンタル・アケルマンのことを知らないニューヨークで、レストランや何かわからない仕事をしながら、英語も学びながら、実験映画の影響を、たとえばジョナス・メカスとか、受けていた、その、何者でもない眼が、何者かになろうとしている眼が見ていた、わたしがかつて見ていた同じ風景を、1977年に撮りにもどっている映画。ニューヨークは古い摩天楼であるからして、あのレンガ色のビルたち、あの灰色のビルたちの、固有名詞はわからないけれど顔は、誰も知った顔のように思われた。「東から」が素晴らしい映画であるのとおなじ意味で、それより前にそれとほぼ同じ(あそこまで徹底はしていないが)長回しで、通り過ぎる人たちの体を、遠くから撮る、時には表情が見えることもあり、何をしているんだか、と笑っている人もいるし、不審にカメラを見つめ返す人もある。地下鉄の駅(タイムズ・スクエア駅)を360度パンを繰り返す、そして次々読まれるおそらくは本物の母からの手紙(シャンタル・アケルマンからの手紙は読まれないから会話を一方だけ聞いているような効果になる)、それを最初から最後まで略さずに読む(「ノー・ホーム・ムーヴィー」でおそらく老いていく母と一緒にか近くに住んでいた妹のシルヴィエンヌはまだ思春期の娘として手紙で描写される、その時間の遠さに、気が遠くなりそうになる、手紙はいつも親族の名前がたくさんで、ポーランドからベルギーへ移民したユダヤ人たち(そしてその移動はアウシュビッツを逃れなかった)の親族たちの絆の固さを思わせる、毎回手紙はあなたを愛する母より、で終わる、マモン・キ・テームみたいな響きが聞こえる)、あの可愛い幼いような声で、感情を込めずに読む、「ジャンヌ・ディエルマンをめぐって」でデルフィーヌ・セリッグに反論された時に、やってみてと言われて苦笑しながら読んだあの早口の棒読み、ほとんどストローブ=ユイレのアンナ・マグダレーナ・バッハの読み方(あれはユイレの声ではなかったか)と同じで、手紙を古楽派のやり方でテキストとして淡々と演奏する、あれをなんかあの新しい(古い)ニューヨークでやっているということの、凄さ

 

頻繁に引越ししていることが母から明かされる、その度に撮る場所は引越しした場所の近くに変えているのだろうか(S-Hであればそうするだろう)。標識に目を凝らす。W46、E46が何度か。わたしがたくさん歩いたあたりだ、と思う。あの図書館の近く、ブライアントパークの近く、それから、地下鉄のなかからドアをただ長回しで撮る、クリストファー・ストリート駅から、ハウストン・ストリート、カナル・ストリート駅まで。固有名詞を目を皿のようにして探し、追いかける。道で野球をしている若者たち、車は路駐してならんでいるのに、ボールを当てたらどうするのか、向こうのほうまで守備のなかまが並んでいて、車が通ると路駐の方へ引っ込む、こんなことで回がまわるのだろうか。

 

マンハッタンを船が離れ、どんどんと遠くなっていく最後の長回しは、マンハッタン島がいかに小さい街に平均高さを高く、ビルの密度を濃く詰め込んだかがよくわかり、なんでこんなに無理したんだろう、ヴェネツィアもそうだけど、小さな島に無理やり押し込むことはないではないか、と地政学を知らない世代だから思う、宇宙人の目で、不思議な町だと思う、私の知らないWTC、あんなにも高く2本聳えて、上の方は雲で霞んでいく

サミー・フレイ/《ジャンヌ・ディエルマン》をめぐって

「ジャンヌ・ディエルマン」のメイキング。よくもまあ25歳の無名の女性監督の映画に注目してメイキングを撮ったものだと思う。最初からこれがいつか歴史に証明されると判断したサミー・フレイおよびその恋人かつ主演女優のデルフィーヌ・セイリグの確信のすごさ。

2004年にシャンタル・アケルマンとだれかもう一人が編集した、と最後にクレジットがでた。監督・撮影はゴダール「はなればなれに」の例の3人組ダンスのひとりサミー・フレイ。主演女優の恋人だったとのこと。

「本作はその現場を主演のデルフィーヌ・セイリグの恋人であったサミー・フレイが撮影、アケルマン自身が編集したドキュメンタリー。仕草や場面の意味を何度も問いかける大女優、セイリグとそれに応えるアケルマン、何度も重ねられる二人の会話やスタッフの女性たちとのやりとりは必見!傑作が創られるまでの興味深い過程と情熱に加え、映像グループ「服従しないミューズたち」を結成し、自身もカメラを取って活動していたフェミニスト、セイリグの生き方や志も強く焼きついている。」

25歳、若く美しく、割と無計画なところもある監督シャンタル・アケルマンが、年上の大女優デルフィーヌ・セイリグに細かく詰められながら、決して謝らないし折れない、お互いが曲げずに、というかデルフィーヌが最終的に妥協するのだが、感情・思考を突き詰めたい女優と、そういう内面を欲さない感覚派の監督のぶつかり合いに終始している(セイリグは、あなたが演出で決めてしまっているならそう動くが、チェスの駒みたいになる、という。まさにロベール・ブレッソンのいう「モデル」みたいなものだろう)。セイリグの雄弁さは恐ろしいまでのもので、日本語字幕にされてもセイリグの発言は真っ直ぐ伝わってくる。一方、アケルマンのいうことはロジックではない世界、原則と美学から来ているので話が噛み合わない。あなたが演出しないなら私が一緒に演出してもいい、とまで言う。実際に、映画界でのフェミニストとして早かったセイリグは、いくつか監督作を残してもいるらしい。芸術面はおいておいて、劇的なら意味では、映画本編そのものよりずっと面白いメイキングだった。よくあの映画がこの経過を経て撮られたものだ。延々と続く女優からのツッコミはしかし、女性同士の平等な関係性をもとに行われていることが分かる。普段(男性監督に対し)セイリグはここまで要求していないようなのである。最終的にはアケルマンもセイリグもこの映画を最初のフェミニズム映画とすべく、同じ方向を向いており、「こんなに自由な現場はなかった」とセイリグはいう(現場スタッフはほとんどが女性であった)が、しかし音響スタッフたちとの別れ際に、10年後のあなたに会いたいわ、私がいま何を言っているかそのころにはわかるだろう、と言い、いや私たちは変わらない、あなたには賛成できないと反論され、フェミニストとしての世代感覚というか、経験の違いから仲良く別れるわけにいかない。1975年、セイリグは「ジャンヌ・ディエルマン」と同じ年にマルグリット・デュラスインディア・ソング」にも主演している。なにかそれが決定的なことのように思える。デュラスとアケルマンの年齢は激しく離れているが。

アケルマン自身とセイリグがどのようにこの作品の後に話したかは音響スタッフと同じような喧嘩別れだったかどうか分からないが、ほぼ10年後にふたたび「ゴールデン・エイティーズ」(1986)で主演することになる(役名はまたジャンヌになる)。どれぐらい同じスタッフがいたかはかなりわからない。映画自体も「ジャンヌ・ディエルマン」ほど尖ってはいないし、もっと感情や思考のわかるキャラクターになっているが、どちらが面白いかというと「ジャンヌ・ディエルマン」の方だろうとは思う。

一番面白かったのは机でカツレツを作るシーン。本編でもびっくりしたが、演じているほうも料理についてアドバイスするスタッフも驚いていた。肉を後で食べるかという話で、机で作ったやつは食べなくない、違う方のを食べるみたいな話が、この緊張感漂うことの多いメイキングのなかで一番笑えるシーンだった。

それにしても照明が近い!暑かっただろうなあと思っていたら暑いとスタッフが言っていた。影がない映画ではあった。セイリグがあれだけつめつめにしたから、冷徹なほどの動きのキマりっぷりが出たのか、あるいはセイリグが何も言わないほうがブレッソンのようになったのか。でも、明らかに、アケルマンが求めていたものはブレッソン映画ではなかった。リラックス、なども求めており、結局は母親や叔母といった人々のリアルに迫ろうとしていたのだから、やはりセイリグが何をさせられようとしているのかは理解して、細かく詰めないとああはならなかっただろうということで、監督と主演俳優の熱烈な議論は結果よいコンビだったということではないでしょうか。だってストローブ=ユイレブレッソンでこんなに俳優が問うことはないでしょうし、ゴダールに至っては問う暇も与えないわけでしょうし。

しかし感情を描かなかったからこその名作ではあるので、セイリグに傾きすぎれば逆に観客に違和感を感じさせない形になってしまったのではないか(自然になってしまったのではないか)。この作品はある種の不親切さにたいして観客の積極的介入が必要な違いの映画ではあるし…

 

やはりどうしてもダニエル・ユイレを思い出してしまう。ダニエル・ユイレのバッハ映画での朗読と、シャンタル・アケルマンのこのメイキングでの手紙朗読はほとんど同じだ。感情ではなくリズムで読め、とまでアケルマンは言い放つ(響かない)。ユイレが詩人フォルティーニに、詩人自身の詩の抑揚とリズムを、なぜか叩き込んでいた(何度も楽譜を練習するように…色々な色で抑揚やリズムが楽譜=テキストに書き込まれていたはずだ)姿が、ここでアケルマンがセリッグに対して行おうとしていたことではないだろうか?(そして理解は得られていない)

 

シャンタル・アケルマン/ノー・ホーム・ムービー

辛い。いつからか遺作にするつもりで撮っていた、あるいは編集していたのではないか。荒れ果てた土地に吹く強い風から始まり、荒地はときどき挿入される。監督の内的光景か、あるいはブリュッセルをはなれたアメリカかどこかなのか。監督の老いた母がどんだんと話せなくなっていく、だんだんと忘れて、だんだんと声が弱くなっていく晩年の数年を取り続けている。まるでコロナ禍の映画のように、Skype(!)ごしにまだ話せたころの母と、ニューヨークで教えている娘は話す。なぜカメラで撮っているの?撮られるのは好きじゃない、と言われながら、シャンタルはMacBookに不器用にカメラを向ける、この、新しさ。そう、アケルマンは、2015年まで生きていた人なのだと。世界が少し間に合わなかったのだと。2015年にこの映画を遺作として、母の一年半後に、アケルマンは自死するが、濃厚に鬱的な空気が映画の最後の方には漂う。最後の母のシーンはもう最後になるのが分かって撮っているような感じもする。最後、母のいない開け放たれた家でなぜ泣き声のようなものが聞こえるのか。

どんどんと話すのが面倒になっていく母、外に出ることも。誤嚥しかけてなんどもむせて、それを励ましている監督の妹は明るく話しかける。息を吸って、背を伸ばして。シャンタルは今日帰るのよ、だから寝ないで。違うのよ、話したくないのじゃないの、話したいの、だけど30分寝させて。寝ると、もう話が半分しか分からなくなっている。半分しかわからない、と本人が言っている。このようになる前の頃は、これでもかとSkypeごしで娘のことを愛している、世界で一番素敵だ、とこの世の終わりかのように褒め称えていた。そういう順番なんだ、と思った。人はそういうふうに、意識があるうちに一生懸命伝えて、そしてだんだん忘れていき、奪われていくんだ。アウシュビッツの生き残りである母の、何を残そうとして撮っているのか、アウシュビッツという言葉を発した時、カメラを向けられる、おそらく家事手伝いの移民一世のようにみえる女性は、その言葉にあのユダヤ人のね、と、それまでと同じトーンで微笑みながら返している。むしろカメラが驚いているようだった。

シャンタル・アケルマン/ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地

まずは聖地巡礼から。

https://maps.google.com?q=Quai%20du%20Commerce%2023,%201000%20Bruxelles,%20%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC&ftid=0x47c3c3856e791205:0xfd89825e10a5d573&hl=ja-JP&gl=jp&entry=gps&lucs=s2se

郵便番号が違うようだが…f:id:lueur:20230716230347p:image
f:id:lueur:20230716230337p:image

邦題は日本での住所並びになってしまっていて、宇宙 日本 世田谷という感じだが、最初に来る宛先の名前が一番小さな単位だから、やっぱり小さい順で並べる方がいいのではないか。

ジャンヌ・ディエルマン、23番地、コメルス河畔通り、1080、ブリュッセル

グランプラスから歩いて16分、街の中心に近いいい場所ではないか。暮らしぶりはあえてつましすぎないように書かれている気がする。カフェに行くのは日課だし(安いのかもしれない)。

河畔通りと書いているが映画に河は出てこない。上記のgoogle地図でみると運河(カナル・ド・ブリュッセル)は通りを数本隔てている。コメルス通り、で良かったのではないかというきもする。商業通りの名にふさわしくなくジャンヌの家の周りは特に店があるように見えない(が、通っている肉屋やパン屋やカフェは同じ通りかもしれない。)ジャンヌが自分の身体を商業にしていることの隠喩があるのかないのか。

やたらと肉とじゃがいもを食べている。しっかりした料理を作っていて、息子のソファベッドは毎回リビングの椅子を大移動させて伸ばしている。毎夜息子と散歩して、毎朝息子より早く起きて靴を磨き、毎朝赤ちゃんをあずかり、そんな中でいつも火が放置されている。同時に部屋を温めたり水を沸かしたりじゃがいもを茹でたりしているのだが、火事は怖くないのか。娼婦としての仕事はジャガイモを茹でながら別の部屋で行われており、男性客はそんなことをつゆとも知らない(同時に行われる家事にジャンヌは意識的であり、男性客はそれを知ると萎えることだろう)。ある意味工業的なプロセスとして娼婦業が処理されていて、そのことに対し息子もジャンヌも後ろめたさや卑下がない。ちゃんとしたことをちゃんとする、という家事映画を長回しで撮ることが、急に再発見され、監督が自殺した後に英団体の選ぶ映画史の一位に輝いたりするが、その未来を知ることなく曖昧な作家として亡くなったしまった(生きているうちに作家性を高く評価されず、実際いろいろな作風でミュージカルやらハリウッド映画やら文藝映画やらとっている)。そこはかとなく、監督のユダヤ性のようなものも写しているような気もする。母親を撮っているのではないかという気がした、ニューヨークの映画の時も、ポーランドからポグロムを生き抜いた、家族の中の一人だけの生き残りというのがいた。愛が描かれているのではないのに、ほとんど痙攣的に(見栄えよりは効率性で)行われる靴磨きなどを見ていると、これを見ているのは誰か?という問いが浮かび、ただ客観的に撮る冷たい視線のなかに、愛があるのではないか、と私自身が反省をすることになる。200分の説教のようでもあった。繰り返しで終わらさずにクライマックスを入れた理由は私には分からなかった。ドラマが必要な理由が分からなかった。そこがフェミニズムなのだ、抑制された性なのだ、と書かれていた。うーん。じゃがいも茹でと同時並行に家内制手工業的に扱われている男性を見ているだけで私は十分食らうものがあったので、もういいのではないかと思ったのだけど。

 

日本におけるアケルマン受容は今、再発見されているのではなく、発見されている状況のようで、世界では一位になりながら日本で今受容され始めた形は、日本で早く熱烈に受容されながら今カンヌで酷い目に遭わされているビクトル・エリセと対照的で、セゾン文化に入らなかったというか、総長のアンテナに掛からなかったからなのか、総長がアケルマンの名前に触れたのを読んだことがないが(もちろん全てを読めているわけじゃない)、BBCの女性監督作品トップ10にはひそかに9番目という場所に入れられている。もしもっと早く触れられていたら日本での受容が違っただろう(80年-90年代であれば)。アケルマンはまだ生きていたかもしれない。

https://www.bbc.com/culture/article/20191126-the-100-greatest-films-directed-by-women-who-voted-a-l

Shiguéhiko Hasumi – University of Tokyo (Japan)
1. The Hitch-Hiker (Ida Lupino, 1953)
2. The Long Farewell (Kira Muratova, 1971)
3. Wendy and Lucy (Kelly Reichardt, 2008)
4. The Cool World (Shirley Clarke, 1963)
5. Love Letter (Kinuyo Tanaka, 1953)
6. Take Care of My Cat (Jae-eun Jeong, 2001)
7. Trace of Breath (Haruka Komori, 2017)
8. Aragane (Kaori Oda, 2015)
9. Jeanne Dielman, 23, Quai du Commerce, 1080 Bruxelles (Chantal Akerman, 1975)
10. La Pointe Courte (Agnès Varda, 1955)

田中、小森、小田の3人はいつも挙げているし、アイダ・ルピノの監督作の無視についても怒っていたし、2位にキラ・ムラートワの長いお別れがあるのは、分かる!としか言いようがないのだけれど。ユイレを(S-H作品をも含めて)入れるならたぶん一位に入っていたのではないかと思うけれど。長年のユイレ上げに対してアケルマン下げがあった(かもしれない)のはアンテナに掛からなかったのか(そんなはずはないので)あえて名前を上げていなかったのか。

シャンタル・アケルマン/アメリカン・ストーリーズ

「東から」が良かったのでとりあえずいま下高井戸で見れるもの全て見ようと思う。今のところ東からが一番良かったのだが。冒頭、ストローブ=ユイレアメリカ」で見たような海からのニューヨーク、自由の女神(「アメリカ」ではストローブ=ユイレの徹底したところでヘリコプターがNYCの上をブンブン飛んでる。カフカ時代なのに、だからこそ。ストローブ=ユイレの「早すぎる、遅すぎる」と「アメリカ」の間に、カロリーヌ・ジャンプティエはシャンタル・アケルマンの「一晩中」のカメラをしている)。高まる期待、そして続くフェイクドキュメンタリー。後世のニューヨークのユダヤ人に自分の母の時代の歴史を切々とかたらせる、それが真実っぽくてすごい。本人の話かと思ってしまった。みんな、死にたがっている。金持ちになっても不幸、基本的には渡米一世なのでみんな金がなくて、小汚くて、生きるのが辛い感じのなかに、妙な小芝居がちょくちょく入る。語りの後にすぐにカットが入るのが、当たり前なのだけれど、そこまでの長回しから行けば、すぐ切るの勿体無いな、黙っているシーンがあと数秒欲しくなる、というのはストローブ=ユイレ病か。ニューヨークの、端っこの、雑な感じ、ブルックリンとか、すこし荒れたような感じを、懐かしく、思い出して泣きたくなった。ニューヨークという都市は、行く前に抱いていた華やかな印象と程遠く、古い都市だったことを思い出した、何せ、あんなに高いビルを建てた一番古い都市なんだから、もうあんな狭い中で、建て替えも一苦労で、落書きとか汚れとかもあって、、、そんな歴史を移民たちが作った、それを自由の女神を観に行くわれわれ観光客はセットで必ず移民の審査をした島もみることになる、あの、アメリカの啓蒙思想、割と好きよと思った。なんだろう、みんな平等に不幸で、しかし、歴史がなくて軽い、古い高いビルの歴史とほぼイコールな歴史が、空へ貫いている。みんな不幸であるが、なんか歌ったり、冗談を言ったりしている。ユダヤ人の人たちをたくさん観たこと、ユダヤ系のスーパーマーケット(フレンズに出てくる紙袋のやつ)に英語学校の授業で出かけたこと、なんかを、思い出して。なんだろう、退屈ではない、決して。ゴダールとS-H以降の映画という感じはある。だけど、いずれにせよあそこまで突き詰めてしまいはしない。共感できる隙がある。極限までいったような「東から」ですらその共感の隙間があった。もう少し見続けよう。

シャンタル・アケルマン/ゴールデン・エイティーズ

「東から」の落差。ミュージカルと知らずミュージカルだったので驚いた。正直音楽はよくない。しかし泣いてしまった。報われないもの同士が抱き合って慰め合ってそれでも生きてくんだということを、異様に力強い台詞回しでデルフィーヌ・セイリグが言う。この結果に導いていったのがほぼセイリグであるにも関わらず。流されられる方のもう一人の主人公マド(リオという歌手が演じるのにリドは歌っていなかったのではないか?)はやたらと可愛くなぜ可愛い子がモテない結果になる映画を見ているのかよくわからないが、だから良いと言うのがあった。

シャンタル・アケルマン/東から

ストローブ=ユイレ「早すぎる、遅すぎる」に対する映画界からの唯一の返信、とストローブが言っていたような記憶があり、それならば見ないわけにいかない、と思って。字幕なし。何がが話されているのかわからない。最初はアケルマンだからフランス語かな、と思いながら聴いていると、ドイツ語の響きがする。と思っていたらキリル文字だらけになってロシア語ばかりになる。前知識を入れないでみたので訳がわからなくなった(複数の旧共産国で撮ったと後で知った)が、途中からこれは意味がわかるべき映画ではないとわかり(セリフを取れることに意味がない)、ぼんやり見ていた。はっきり言えることは、こんなにも認識可能な撮り方で人間の顔が大量に撮られた映画を知らない。ウィークエンドのような延々と続く長回しで、二度と現れない人たちの顔、顔、顔を、ずっと見させられる。彼、彼女らも、カメラに手を振ったり、笑ったり、渋い顔をしたり、顔を隠したりしている。かれらは電車を、飛行機を、バスを、待っている。ただひたすら待っている。時々音楽。縦型ピアノの困った音で奏される恐ろしく美しいノクターン。誰の?