circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

シャンタル・アケルマン/街をぶっ飛ばせ(1968)

まず何にせよシャンタル・アケルマンの声が綺麗でかわいい。出鱈目に歌っている映像と必ずしも同期しないアフレコの歌で成立してしまっている(一方で擬音語みたいなのも言っている)。「ジャンヌ・ディエルマンをめぐって」を見た時に驚いたのは、あの映画から感じ取った骨太さからとおく離れたシャンタル・アケルマンのまるで子供のようにかわいい声で、意識されない偏見というやつなのだろうけれど、デルフィーヌ・セリッグが低い迫力のある声でロジカルに詰めてくる時に、シャンタル・アケルマンのラディカルな説明が時に沈黙の後か弱い声で返されるのを見ていると、セリッグが一方的に正しいような気もしたが、いま、この処女作で若いアケルマンがほぼジャンヌ・ディエルマンの台所と同じサイズと同じ配置の台所で出鱈目な家事をやっているのを見ると、あのときアケルマンが言っていた思考や感情を演技に乗せたくないという言葉の正しさも分かってきた(メイキングの感想に追記した)。これは1968年という年を鋭い感性で捉えて、イロジカルに演じられた狂った家事であり、カメラはやはり感情を抑えて客観的に捉えようとしている(しかしジャンヌ映画ほど位置を小津的に徹底してはいない)。ジャンヌが痙攣的に手早く済ませた靴磨きを、ここでのアケルマンは本当の痙攣的に、衝動的に、ふくらはぎまで炭を塗っていく。そこに思考や感情があるはずがない。この衝動、思考の無さや感情の無さは、例の表象できないというアウシュビッツの生き残り(の娘)としての表象ではないか、ジャンヌ・ディエルマンとしてのセリッグに求めていたものも言語化されなかったかもしれないがそのことではないか(しかしこれも偏見かもしれない)。しかしこれは台所映画という意味でジャンヌの原型であるし、やたら粉も巻くし、銃声など聴かせて、発作的であることは確かにゴダールの影響なのだろうなとおもうけれど、カメラが冷静でいることや、次の「家からの手紙」の全テキスト棒読みかつ長回しストローブ=ユイレの影響もあったのではないかという気もする。なにしろ面白い人だなと思う。繊細な暴力性はキラ・ムラートワの長い見送りで感じた感動に似ている気もするし、これも意識されない偏見かもしれないし。