circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

とてもかっこいい言葉が書きたいな、と、亡くなった詩人のことを、ともだちがただただ言葉がかっこいい、とかつて言っていたことを思い出して、そう思うのだけど、あの人は、かっこいい言葉を書きたいなと思って書いたはずがない、わたしはいまだに、お茶の水駅のまわりの晴れた空を、少し離れて歩きながら、おそるおそる、どういう風に書き、どういう風に推敲していたのか、聞いた日の空のことを思い出す、のは、未だに回答が思い出せないからで、ただ、あの人の中で、正しい形になるのを待つ、ような、自分でどうにかするというよりも、「時が来たる」みたいな回答を受けたような印象だけ残っていて、ああ、やはり天才は違うな、私みたいな、自己顕示欲から始まる奴はだめで、だからこの天才は書かなくなったのだ(ただ、時が来たらなくなったというような自然さで)、それはたぶん、自己顕示欲とは遠い謙虚さで、それこそがとても、とても、美しく、もはや存在において詩なのだ、と、本当に普通の人だと思いながら、だからこそ、ファンでした。詩よりも、人として。(だから、悲しいし辛いです。でも、私よりずっと…。)
そして詩を。