circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

たけみつ

それから先日、非常にインパクトのある経験をしました。ベルリン・フィルハーモニーとカラヤンの、東京での最後の演奏会へ行ったのです。モーツァルトの39番とブラームスの1番をやりました。
僕は,高を括っていて、たまたまキップを貰ったものだから聴きに行ったのですが、こんなにオーケストラに感動したことはありませんでした。いままで僕がオーケストラというものに対して感じていた自分なりのオーケストラ概念が、一挙にバーッとふっ飛んだのです。ただ,それは他の,ブラームスモーツァルトを詳しく知っている人たちにとっては、はたしてよかった演奏なのかどうかわかりませんが。
というのは,たまたまその演奏会の後に、ある音楽評論家から「武満さん、どうでしたか?」と訊かれたものですから、「ほんとうに感動しました、すばらしい」と応えたら「エーッ!」と突然、意外そうな顔をされたのです。その人は当然、僕が「いや、ぜんぜんよくないです」ということをどうも期待していたようなのです。でも僕は「ほんとうに感動しました」といったら、「エーッ、モーツァルトであんなに金管を鳴らさせたりしていいんですか、よかったと思うんですか?」というから、「いや、金管が鳴ったかどうかは僕はぜんぜん覚えていない、そんなことわかりません。そのものが、そこでやられたものが何だったのかも僕はわからないけれども、すばらしいと思いました」といったら、「いや、武満さんもずいぶん堕落したものだな,そうでなければ年なのかな」といわれたのです。僕はとても怒ったのです。モーツァルトブラームスも僕にとっては絶品でしたから。
それはその後,たまたま何人かの演奏家ベルリン・フィルのメンバーに会って、僕の印象が、彼ら演奏家が演奏していたときに感じたことと同じだったことが実証されたからよかったんだけれども。ブラームスでのオーボエのソロは、まるで天使の翼が抑揚をつけているような、人間業とは思えないほど、美しいものでした。かつてオーボエがあんなきれいに吹かれたのを聴いたことがなかったほどにすばらしかった。カラヤンは大して振っているわけじゃないんだけれども、そのオーボエのソロから突然カラヤンが見違えるようなものになったのです。そしてオーケストラ全体が変わってきたのです。
聴き馴れているはずのブラームスに打ちのめされたからでしょうか,僕の気持ちは奇妙にたかぶっていました。だが、そのときたしかに感じたことは、「このオーケストラは,プレーヤーのただ一人でもだめだったら成立しないな」という印象だったのです。名うてのベルリン・フィルに対して抱く印象としてはおかしいかもしれませんが,それが実感でした。
ところが,後で、コンサートマスター安永徹さんに会ったら、「きょう私たちはほんとうにいい仕事ができた。親方があんなにいいことをしてくれたのはこの演奏旅行中はじめてでした」という。「それはどういうことですか?」と訊ねたら、「なんたってオーボエが信じられないことをやってぼくらを引っ張ってしまった.そうしたらカラヤンさんもぜんぜん変わっちゃった」という。「前の日、私たちは惨憺たる演奏をしたのですが、きょうはそういうことでみんなが自分でほんとうに好きなように演奏できました」という。どうもほんとうに好きなように演奏しているということがぼくらにも伝わってきたのだけれど,それでいて,オーケストラとしての全体がじつに見事に出てきたのですね。
オーケストラというのは、みんなが同じようなことばかり弾いていて、第一バイオリンは二十人同じようなことをしていて、考えようによってはグロテスクで不自然なものだと、そんな印象をもつような演奏も多いのですが、この時の演奏では、このオーケストラは一人でもだめだったらだめになっちゃうなという印象を持った。それはとても強い印象で、オペラティックな感動だったですね。一人でも,一つのパートがだめでも,全体がだめになるのじゃないかというような感動だったのです。
あれだけみんなが個性を主張していて、あのアノニマスな至福の瞬間をつくり得たのは、やっぱり西洋オーケストラも馬鹿にできない,大したものだという感じでした。
ベルリン・フィルというのはぼくの音楽とぜんぜんちがうドイツ的なガチガチなもので、ただただドイツ的な表現,ドイツ的な論理構造につねに支配されているというような固定観念があったのですが,それが見事に破られた。

https://www.youtube.com/watch?v=hkqOJ-BHBMs
1988, 最後の来日
たけみつの言うオーボエは2:28か、15:28か?

とあるブログ

BPO安永徹さんがFM放送にて終楽章は皆一生懸命弾きまくって、もう何がなんだか判らなくなってしまったと述べておられました

宇野氏

死の前年、カラヤンが最後に来日したときにサントリーホールでのライブ録音である。カラヤン色でむんむんするような演奏だ。
ブラームスの第一楽章はティンパニの底力のある強打でゆっくりと始まる。豪華さ、ここに極まれり!という序奏部である。スケールも極大。
主部の各パートが鳴り切るさまも、かつて耳にしたことがない。壮麗、壮大、指揮している本人はさぞかし気持ちがいいことだろう。ただ、内容がないのに明るい豪華さ専門なので、これほど外面的なブラームスも珍しい。

第2楽章は速めのテンポに変わり、音色が美しく、歌いぬく。棒がわかりにくいのか、タテの線の合わないところがある。第3楽章も同じパターンなので、変化に乏しく、だんだん単調になってしまう。

フィナーレは第一楽章と同じ。ずいぶん内容に乏しいブラームスで、肝心なところに凄みがなく、ときにはうるさく、全編きらびやかの極み。効果的なテンポの動きもあるが、刺激に耳が慣れてしまっているせいか、輝かしさ一本槍のせいか、デリカシー不足のせいか、とにかく一色の豪華さが金太郎飴のように連続するので、カラヤンのファンにとっては満腹の大ご馳走ではないだどうか。


とあるブログ

レコード芸術』2009年7月号の『名曲名盤300』の評論家投票で、アンチ・カラヤンとして有名なあの宇野氏が第2位につけていました

1988年ロンドンライブ(最後のブラームス1番演奏)で二番目の評を付けている。果たしてサントリーホールとロンドンと、そんなにアプローチが違うものだったのだろうか?

https://www.youtube.com/watch?v=hYDkQ4s80SQ
1988ロンドン


おそらく今回も一位に挙げたに違いないシャルル・ミュンシュ&パリ
http://nicoviewer.net/sm17249458



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ブラームスというのは、結局男性の音楽という人があまりにも多いけれど、それは違うと思う。女性の音楽だと思う。多分、ブラームスの中にあるクララ的なものを集めた結果ここに至るのではないかと思う。憧れて届かない女性性の音楽だと思う。いつも届かなく、美しい。