circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

子供の頃からクラシック音楽が好きな人ならば誰もが、幼少期に聴き込んだ演奏が一番素晴らしい演奏だと思うのではないかと思うのであって、それは在り方として間違ってはいないのではないかと思う。少なくともそれを血肉として育っているのだったら、彼女/彼のなかでそれは本物であろう。例えばショパンソナタ3番を聴く時に、4楽章の初めが弱音から入ったりアッチェレランドをかける人がいるとがっかりしてしまう(楽譜は冒頭からフォルテ、直後からクレッシェンドとなっている)。ルービンシュタインにおいては(https://www.youtube.com/watch?v=D2-Mxo_Uli0)すべての音を堂々と弾いていて、ややクレッシェンド感が欠けるかもしれないが、6音目と8音目がややずっこけることによって、気持ちアッチェレランドに近いような感情的なクレッシェンドがある。ここで素晴らしいと思うのは、他のピアニストがアッチェレランドを最後までかけてしまうのと違って、ルービンシュタインは最後に堂々としたテンポに戻る(0:08)こと。これによって、その後の沈黙が待たれることになるし、待たれた沈黙の後に来る右手の「シ」でのルバートこそ素晴らしい。他のどんなピアニストの演奏を聞いてもこの「シ」でよたる人を知らない。でも、私にとっての、ショパンの3番の4楽章は、あの堂々とした序奏のあとの沈黙のあとに、3連符がするっと入ってくる(他の人はみんなそうだ)のではなく、やや付点ぎみのこのリズムで序奏の堂々としたリズムを頭一音で引き継ぎながら、同時に(次の音から)agitatoの嵐へ突っ込んでいくものでなくてはならない。ショパンは私の幻想のなかでこう弾いたに違いないのだ。テンポにしても、この弾き飛ばされがちな楽章を、やや遅めにとることで、例の「よたり」が宿命的に響く。これがただの「3」であるはずがいない。血を吐きながら円環を進んでいるのだという意味においての3であり、血を吐いているために4(付点)に近いはずである。あと、余計なことかもしれないが、4:28におけるスタッカート的な処理(そのあとの一瞬の間!)は楽譜に書かれていないが、そのあとの4:33との対比ふくめ、これがなくてはなあ、と思う。