circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

ベリーズ工房の蝉、について、ずっと考え続けて、健康を崩しているのだけれど、やっぱりこのボーカルの温度が、ヴィブラート以前の坂本真綾(2枚目のアルバム)と同じで、変なことを覚える前の、でも少し歌う技術をえはじめた楽しさがある、そういう、二度と戻れないうまさ(へたさ)、に浮かんでいる。センター二人はそれはうまいし、とくに雅さんの3:33の、それはそれとして、の声の伸びとてーの後のへっ、というのがものすごくきいていて、でもそのうまさはその前の熊井さんのとても苦しげな、意外と、のコントラストがないとダメで、ということをこねこね分析していると、やこれ以上のかたちないなて。みしーん、について、その歌詞の突然さを批判している人がいて、音合わせのためだけに入れた二音節、みたいな、それなら弟の蝉情景で止めるべき、と、それは詩学としてはわかるけれど、音楽として、あの二音とエコーが楽器だけだったらダメだろうし、意味を測って、あれは弟がミスしたのだ死んだのだ、という怪説もあるけど、あれはただ、意味を取ればやっぱり、漠然としたさみしさのことだろうと思う反面、わざわざ、semi という題名を付けたうえで、missという逆の子音の並びを選んでいることとか、エコーを等間隔でなく小さく歌わせていることを考えると、鳴き声のことを勘案しないのは手落ちだろうと思う。遠くなって行く蝉の声と、都会の彼に対するさみしさと、しかしそれ以上に里に対する別れのさみしさ(これが主眼の曲なわけで)とか思うと、これは悪くない、というか、これしかないように思えてくるのだった。夕暮れ時に、のアイドル歌唱をしてしまう桃子さん(むしろ、お夜食やお土産のところの凄まじいテンションは彼女がいないと出せないもので)も、すこしこもった声でmissingする梨沙子さんも、これしかない、と思うし、外れながら音を当てて行くことで不安定なさみしさとか憧れが出ている千奈美さんも良いと思うし、など考えて行くと、失われたなんかだな、と思う。PVで唯一名前が表示されない舞波さんは、いちばんいい仕事を二回の(ぅわったしは!)でしていて、後年清水さんと桃子さんがそこを代わりに歌うようになるが、前がユニゾン、後ろもユニゾンの谷間の中で、存在意義を叫ぶようにしてあった跳ねるような舞波さんの主張には、到底及ばず、それを聞くたびに、このmissingした存在、消えた存在は舞波さんなんだな(帰ってからのメールがない、ということは、田舎から帰らなかったということか)などと、たわいもないことを考える。ビートルズが一人ダブルボーカル録音であの絶妙な寂しさを演出し得たように、このサビは常に二人で歌っている、のに、あの"わたし"だけが一人なのだ、ということについては、深く考える必要がある。


逆回転が寂しさを演出するもう一つの道具だとすれば、逆回転してなにが戻ってきて、なにを取り戻そうとしていて、何が戻らないか、ということになり、それはたぶん、舞波さんに代表される拙さと懸命さなのだろう、そこからくる喪失感なのだろう。