circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

神様がいるかいないかは知らないよ、
でも、
きみとわたしと、みんながいて聞き耳をたてていること
この上がっていく音階に

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きみもぼくも名前がなくなって一つになれればいいのに…それはあの世でしかできないことではなくて、たとえば、この音の階段をともに登ること


あなたとひとつになりたかった、あなたとひとつになりたかった、
そればかり

意味が過剰だと思うのだけれど、そこから抜け出すのにどうすればよいのかが分からない。言っていることはつまらない。

御茶ノ水の明るい空の下を歩きながら、大好きな詩人に尋ねた、推敲について、そして、詩人は推敲するひとで、というか、オン書きでそのまま出してしまわない人で、正確な言葉を忘れてしまったのだけれど、しっくりくるのを待つというような、より正しいつながりを待つような、(推敲していても、いつもつながりは突拍子もなくて)、どうしてあのように「推敲」できるのかという、論理ではなくイメージであるものが、どうして時間を経ても空を飛んでいられるのかという、その不思議さは、その時も思ったし、今でも思う、だけれども、そのときもう詩人は書くことをやめていたので、(やめていても詩人は詩人だというのは、真理だ、)そこについてしつこく聞けなかった。そのような不思議な時間をとおした推敲ができるということが、そのことこそが、急にぱったりと詩人が書かなくなったことと、一貫した論理性を持っているのだと思う。どうして、あのようなものが書けた人が、日本語史上になかったものを書いた人が、自己主張を続けずに、たぶん、必要だったから、書き、やめてしまうのか。そこにある力動に、わたしは参加する資格がなく、ただ美しいと嘆くばかりで、それはとても人間的ではないのだろうと思った。あらゆる意味での詩が、僕にいつ、ほんとうに必要になるのだろうか。理由もなく、一生詩を書く人はいないだろうと思っているのだけれど、一生詩人である人はいると思っている、だけど、その、詩を書かない詩人という在り方は、とても苦しくつらいもののような気がする。