circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

https://www.youtube.com/watch?v=A2VD6td4ZiY
28:39-
Segovia以来ここまで美しいルバートとポルタメントを聴いたことがない。
28:48に一つ。その単体だけでなく、そこへもっていく加速、ポルタメント後の着地の静かさ(この音楽家は、解決はうるさくやるものではなく、たいせつに落とすもの、ということを本当にわかっている人だと思う。それをここまで示してくれる人は、本当に少ない)。28:50の一瞬のド、その静けさ、つつましさこそ美しい、言葉にならないし、畏敬に打たれるままだ。28:55もしかり。なんという息の長い歌、29:14からの長いリタルダンドは、29:30のポルタメントを美の頂点へもっていくためだけに存在する、しかもそれは本当につつましやかに歌われる。本当に息の長い持っていきかたの山が、これ見よがしでなく、不意打ちのように流れていくという、そこにこそSegoviaの後継者というべきこの人の本質がある。一つの不自然さもなく、連綿と、恥ずかしげもない歌が、全く恥ずかしくなく流れている。おそらく、この後時代遅れと言われるスタイル、このまま演奏家として活躍されたら、きっとエリック・ハイドシェックのような道へ行かれたのではないだろうか。時流に阿らない孤高の天才というような。このビデオを見て、明らかに彼だけ、その自然な歌と抑揚において、ひとりだけ、格が違う。もっとも美しい演奏をしたときのSegoviaのような。尊い光がある。


しかし、天才をつぶさざるを得ないような音楽ビジネスなら潰れてしまえ、と悪態をつきまくりたくなる、音楽ビジネス側にこそ、この天才を守るべき人間がいるべきだったし、天才でも何でもなかったけれど、彼の天才を理解できる私は、その場所にいたかった、ほんとうにいたかった。ゆっくりデビューさせてあげたかった。


53:07からの演奏の、どこも不自然なところのない、沈黙。これだけの沈黙に耐えられる奏者がいると思えない、ひとつも機械的ではない休符。音が入ってほしい時にはいってくる、しかもこんなに小さい音で。聞こえる、聞こえないということは大した問題ではないとでもいうかのように… その勇気を普通の人は持たない。メロディのほうが伴奏より小さいという心の込め方を、正しくやりおおせるひと。最後の表情の神々しさには、awestruckという言葉以外持てない。



https://www.youtube.com/watch?v=OwNPBYyz4eY
鬼が現れる、この楽器には、ほんとうに数少ないことだが鬼が現れることがある、稀に。
28:40、ここをこれ以上の表現をしうることが考えられない、現代にはじめてあらわれたこの、分散性、
のあとに、とんでもなく息の長いクレッシェンドがあって、さいごに、鬼が現れる(30:00からの何度も現れるアルペジオ
とくに30:04のはその前の一瞬のポルタメントを伴ってとんでもない(これは鬼だ)、そのあとに30:15のすさまじいもの、
それがあるからこその30:34のアルペジオの美しさがある、その解放。ラストのアルペジオ然り。