circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

Aspさんと送りさんを読み直すべきだと思う。そこからしか始まりそうにない。紙のひとに共時性を感じないのは、詩は過去の蓄積と反比例して働くからではないかとおもう。手帳やら文庫やらを読み続けたひとがそこからいまここの感染力ある、かつじぶんから出る感性を保持できるとはあまり思えないで今はいる。多義性と、内在の音楽は、他の蓄積とは関係なく、むしろ、他の蓄積はアドヴァースに働くにちがいない。あくまでも、わたしの、共時性感覚のもとには。送りさんの今の仕事や、Rさんの今の仕事は、まだわたしが考えのおよぶ世界ではない、自発が他との関係で大人になるような、社会性のような事柄は、まだ研究できない。