circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

七回読め、と東大の人が書いていた。
かしこいひとでも、東大、という名前で本を売るのだ、と思った(東大というワードで売る時点で幻滅した。古い。30年ぐらい古い)。言ってることは、たぶん、読みの完璧主義を否定し繰り返しを重視する点で、フォトリーに似ている。フォトリーのスードサイエンスぶりから回避するためか、目の焦点やら、目の動きやらの論点はない。いずれにせよ、ファインマン基準ではカーゴカルトサイエンスに過ぎない。でも、ファインマン自身がおそらく、カーゴカルトサイエンスの別の部分での利益を知っていたはずだと思う。そうでなくて、オルタナ療法の聖地を学生にすすめやしないだろう。カーゴカルトプラシーボ効果は無視できない。わたしはたぶんうつからそれで回復したかもしれない。次に、サイエンスは遅れてやってくる。検証や証明は、セレンディピティ的な事件のあとにやってくる。証明されていないからといって否定するべきではない、ただし、証明をしようと努力すべきだし、その証明において、誠実でない方法をとったものは万死に値する。(都合の悪い結果の削除、グラフの印象操作…)


彼女の本も結局科学的な証明はなにもない。彼女の頭の中で何が起こっており、それが他の人も可能かについて、まったく科学的でない。科学とは反復可能性のことだし、場合わけなしでの例外は認めないことだ。


そのうえで、七回読みの面白いところは、復習する上で必ずネックになる、ねずみ算的に復習の時間が増える、という現象を、最初から全部復習すると言える形で乗り越えるところ。七回かかって理解するかわりに、一回単位が全部。水彩を薄く塗り重ねるように、と書いていたかとおもうが、フジタみたいな感じなのかな、とむしろ思った。一度ずつの間隔はみじかく、と言っている。記憶曲線の1.7.14.28日おきの復習と矛盾するけど、そもそも復習という考え方がおそらく、理解していることを前提としているから、七回読みにおいては、七回読んだ時点でやっと0日目なのだろう(そこから7.14.28で薄く読み直すと良いのではないか?)、Amazonで、そことの矛盾をついていたひとがいたので。もう一つ、Amazonで鋭いと思ったのは、新聞の一面を20回速読したが理解はちっとも深まらなかった、というもの。まったくそのとおりだと思う。何処かに、基礎的な理解を深めるための熟読が入らざるを得ないはずで、その箇所が散逸的にあるのだとしても、その行為をするのかどうか、するのならいかに行うのかについて全く触れられていない。まったく理解できないものを理解するための熟読の前の4回の飛ばし読みにどの程度意味があるのか。道や景色を右脳的に覚えるために、というスードサイエンスを、フォトリーのセミナーでは言っていたけれど。果たして解析入門や線形代数入門をその方法で読めるのか、飛ばして章の構造や式の風景に何度も慣れたとして、それは論理の理解にどう役立つのだろうか?並行に同じことを言う普通の言葉による本ではなく、重複することをほぼ述べないことが美徳である数学の世界においては?



結局、全体性を知ることの利点、ということを、もっと検証すべきなのだと思う。もしそれに意味があるのなら、そして熟読も必要なのなら、全画面をなんどもフジタ的な薄塗り重ねをしながらも、いっぽうデフラグのようにしょうべつに前から詰めて論理を重ねていく(そしてそれも七回繰り返したうえで、0.1.7.14.28の曲線にのせる)必要があるのでは?