circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

あなたはどこからきたの?

生きることは罰ゲームではないの?

 

ながくインフルエンザで学校を休んで、出てきたころにはみんながそろばんをできるようになっていた。わたしは、そろばんの基礎がわからないまま、応用編を習うことになり、何も身につかなかった。苦手になった。クラスから置いていかれた。それを怖いと思っていたか?嫌だとは思った。でも怖かったかどうかは、覚えていない。

 

学年が上がるとともに、どんどん算数や数学がむずかしくなって、付いていけなくなった。嫌だなあと思った。成績が落ちていくのが。でも怖かったかどうかは、覚えていない。

 

わたしの完璧主義はどこからきたのだろう。人並みや平均以下の成績を取ることを知っていたはずなのに、どこからその経験を忘れたのだろう。

 

不完全なわたしをいつから私は受け入れなくなってしまったのだろう。失敗から得られるのは、よりよくするための知見ではなく、失敗を通じて他人から得ることができる思いやりなのではないか。無条件の承認は、成功しているから得られる承認ではなく、人間らしく失敗することもあるよ、ということで得られる承認、ではないだろうか。無条件の承認があるからこそ、失敗を可能性として含む挑戦ができるのではないのか。もちろんその次に、経験から学ぶことの大切は来るのだろうけれど、あくまでそれは二次的な話だ。

 

わたしはそんなにも過度な期待を背負って生まれ育ったのだろうか。そんなことはなかったはずだ。勝手にいい子になろうとしただけだった。成績で褒められたことがある。それは数字。単なる数字。下がることがあって、どんどん下がっていって、褒められなくなっていったのかもしれない。でもわたしがわたしであることは、数字の増減グラフのなかには存在しない。良い成績の肯定を通してすら、失敗を恐れるわたしが育てられてしまう。自分がいい数字を取ったときに自分を褒めないこと。そのことしか、悪い数字を取ったときに自責する自分を生むことを防ぐことは、できない。成績を条件とした承認に対抗するためには、わたしの内面的な支えが必要だ。内面的な支えはどうやって育てればいい。自分の人間性を承認するにはどうしたらいい。なにをしたら報いられる。そこにある液体は硫酸か。フッ化水素酸か。触ったら最後、指を失うようなものなのか。すべての液体が?取り返しのつかない結果を生むとどうして言えるのか?お酢かもしれないし、本当にただの水かもしれない。わたしはのどが渇いていて、何かをのみたいときに、何も飲むことができなくなってしまうかもしれない。

 

二分法は分かりやすい。でも世界が分かりやすくないといけないと誰が言っただろう。わたしはわたしにとって分かりやすくなくてはならないのだろうか。馬鹿か天才でなければならないのだろうか。聖人か罪人でなくてはならないのだろうか。

 

……じぶんの
そとに出て、みなの
人生を生きたいという、
あたりまえの日の
あたりまえの人々と、
おなじになりたいという、
のぞみ。
……この町はずれの
新道で、ためいきみたいに
はかないのぞみが、ぼくを
捉えた。

 

……あそこでぼくは
はじめて、あまい虚しい
のぞみに襲われた。
暖かい、みなの人生のなかに、
じぶんの人生を入りこませ、
あたりまえの日の、
あたりまえの人々
と、おなじになりたいという
のぞみ、に。

ウンベルト・サバ 須賀敦子訳「町はずれ」 太字は引用者)

 

…詩を訳したりessayを書いたりする
ことも最高に幸福なのですが、それが すぐに、世間という場の中
でrankされて クギヅケ、ハリツケになる.そういうことだったら
“えらく”ならなくたっていいじゃあないか。
そんなことしてると あなたが だめになる、とよく人がいうのですが それでは
ダメになるってなにか.ダメでないにんげんになるってどういうことか。

( 「須賀敦子の手紙 1975―1997年 友人への55通」より)

 

なんて温かい人なのでしょうか。彼もまた、どれほどの安らぎをあたりにふりまいていることでしょう。ペッピーノ、私にはなぜ、友人たちがいうように、自分の人生を決めつけなければならないのか、何者かにならなければならないのか、わかりません。私は小さく、誰でもないにんげんになりたい、たいしたことなく、大きなことをいわない人間に。それはわたしが望んでないからではないのかもしれません。私にはそれが、自分が生きるためのたった一つのあり方のように思えるのです。

須賀敦子、ペッピーノ・リッカ宛手紙より 岡本太郎訳)

 

やる気を出すために高い目標を設定したりするが、それはそれによってやる気が出ると想像している抽象概念に過ぎない。平均以下の目標を設定しても、それをやってみると意外と報われた気持ちになる、やる気が出てくる、ことがあるかもしれない。波が人間はあるのだから、常に成長しようというのは間違った考えだ。今日これができたから明日もできるはず、さらに成長するべきだというのは間抜けな考えだ。今日できたことは明日できないかもしれないし、明後日はもっとできないかもしれないが、来週はまたできるようになっているかもしれない。そうやって平均を上回ったり下回ったりしながら生きのびる。明日の目標は今日以下だって良い。やることそのものが重要だったりすることがあるからだ(散歩とか)。前日の半分を目標にして、あとはやる気が出たり楽しくなってきたら続けるのはどうだろう。機械的に凡庸になってみてはどうだろう。

 

神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。変えるべきものを変える勇気を、そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えて下さい。

(「ニーバーの祈り」)

 

仕事においては楽しめることをしなさい
家庭生活においては完全に現在に在ること(completely present)をしなさい
自分自身であることに満足していれば、
競争したり比較したりすることをしなければ(if you don't compare or compete)
みながあなたを尊重するであろう(everybody will respect you)

 (「老子」より英語訳からの重訳)

 

だれもわたしをラベルづけしなかった。わたしが勝手にわたしはいいこである「べき」だとかんがえたのだ。にがてなさんすうやりかをとくいにしなくてはならないとかんがえたのだ。わたしは、ものがたりがすきなかていにそだった。(そしてものがたりをすて、すうちとりろんをとった。)

 

わたしはゆめをみた。ゆめをひとにかたった。それをかたちにすることはにがてだった。ただただ、ゆめばかりをかたった。そしてだんだん、それではダメだといわれ、おもい、形にすることを取り組もうとした。私は夢を見られなくなり、夢を語らなくなっていった。

 

美しいと思うものを集めたものが私であって欲しい。

 

わたしが既に持っているものは何だろう?欲しいものではなく。すでに私の中にあるギフトはなんだろう。習得しようとするものではなく。美しいと思う心はわたしだけのもの、美しいと思うじぶんのさくひんを並べることもじぶんだけのもの、集めて並べて生きた証にすること。(それをわたしは去年末にいっしょうけんめいしていた)

 

好きな和音を集めること。好きな言葉を集めること。好きなフレーズや詩を書き、誰かが「きみは何すべき」という前の私がやっていたこと、やりたかったことにもどること

 

おすもうさんになりたかったし、しきしゃになりたかった、それがわたしがだれかということ

 

なぜ父が音楽を選び母が絵を選びわたしがここにいるのか

 

わたしは音楽が美しいと思える 詩を美しいと思える 小説を美しいと思える 絵を美しいと思える

わたしはわたしの中にあることを外へ表現したいと思う渇きがある 音楽のかたちで 詩のかたちで 小説のかたちで 絵のかたちで

(わたしが死んだとしても この渇きがあったわたしというひとはこうして字にのこる)

わたしにはまだ大切な人たちがいる、困難な中でもわたしのこえを聞いてくれるような。

 

わたしは健康で、わたしは聞こえる、わたしは歌える、わたしは歌える
わたしはわたしがなにかすると信じられる
わたしはそれをつかってなにかできる
わたしは人を愛せる そしてだれかに愛される

 

わたしは感じることができる だれかと共鳴することも

 

なのにわたしはじぶんにいきすぎた期待をし、じぶんを許さない
重い重い荷物をせおって、しかもそれをふやしていく
それが必要なのか知らないままに。わたしは本の虫ではなかったのになぜ本棚にこんなに本があるのだろうか。形としてこれらを置いていかなければ先へ進めないのではないだろうか。向上心、私の内側からではなく外から来る向上心、ミーハーであること、心の底からは喜べない向上心、心の底からは楽しくないことがら、これらのすべての「すべき」ものたちを。放つと。羽みたいにわたしはなり、わたし自身であることを助けられる。

 

学歴、職歴、それらすべての、石

 

いまないものを
欲しい、と思うこころ それ自体