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Diary of K. Watanabe

自分メモ:仕事選びのアートとサイエンス(山口周)

面白い本。興味深いいろいろな人が言っていることをうまくピックアップして、百貨店みたいに並んでいる。その選び方にこそ筆者の視点の独自性がある。一方で、それぞれの主張が互いに矛盾をきたし始める感もある。

不安定で不確実で複雑でかつ曖昧な世の中で、100年を生きなくてはならない私たちは、前もってゴールや目標を設定してそこからの引き算で人生を計画することが難しくなっている。

論理的で合理的な仕事選びのアプローチが有効に機能するとは考えられません。

ではどうするのか。

スピノザは(略)「本来の自分らしい自分であろうとする力」 をコナトゥスと呼びました。(略)その人の本質は、その人の姿形や肩書きではなく、コナトゥスによって規定される(略)

昨日も悩ましいと考えて書いていた、自分探しのテーマがここに現れてくる。「本来の自分」とは何か。そんなもの、探していたら、時間が足りないし、本来の自分をどうして自分が知っているのだろうか。それは本来の自分だと信じたいなにか別のものである可能性はないのか。本当にそれは自分なのか。理想像や憧れにすぎないかもしれないではないか。筆者はこれに対して、やはりこれは、外部が教えてくれると考えているようにも思われる。筆者は、(須賀敦子読者である私には「例の」と言ってしまう)カラヴァッジョの、ローマの教会にある油彩画「聖マタイの召命」を引用して(本の表紙にまでしている)、こういう。

「召命」と「天職」。日本語では全く異なるニュアンスを持つこの二つの言葉が、英語ではVocationあるいはCallingという一つの言葉で表されるのです。つまり天職とは自己によって内発的に規定されるのではなく、本来は神から与えられるもの、と考えられていたということです。(略)天職とは本来、自己を内省的に振り返ることで見出すものではなく、人生のある時に思いもかけぬ形で他者から与えられるものではないか(略)

このあたりは昨日感想を書いたサイバラさんと同じで、やっているうちに他者が教えてくれるから、自分探しをしている場合ではない、ということになる。私が学生の時に「絶対内定」を読んで腑に落ちなかったことのこたえがここにある。わたしは叫んだ「ガキュウガキュウ!」 Rくんも一緒に叫んだ「ガキュウガキュウ!」 かくして我究はわれわれの流行語になっただけで、ちっとも社会経験のない私たちはどちらへ進めばいいかわからず自分の掘った鬱の穴へ沈み込んでいくのだった。数年後、わたしは年下の友人に「とにかく世の中に出ないとわからないよ…やりたいことがないなら大学院にとりあえず行くのはあまりお勧めしない」などと言い、他の友人に「とりあえず幅広そうだからコンサルティングというのはより鬱を深めると思うよ…やりたいことがないからコンサルティングというのはあまりお勧めしない」などと言い、他人にはそういうことを言うのに自分は永遠に失敗を続けていた。

(略)「自分は世界に何を求めているのか」という、我々がいつも抱えている問いを、「世界は自分に何を求めているのか」という問いへと180度切り替えることを意味します。

このコペルニクス的転回に接触するためには、とにかく外に出なくてはならない。自分の中の世界から一歩前へ、一歩外へ。閉塞感を感じる閾があるならば、その閾を一歩だけ超えてみると、そこに希望や美しい世界があるかもしれない。その一歩はいつも、怖いのだけれど。

サービス業は製造業と違って、個人個人のモチベーションが大きく生産性に影響します。先述した通り、どのような仕事が自分に向いているかは事後的にしかわかりません。したがって、自分がどのような仕事に動機づけを感じるか、ということもまた事後的にしか分からないということです。

ゆえに、転職は必要になるし、いろいろやってみないとわからない。

「憧れ」は「ありたい」という形で動詞化されるが、本来の自分あるいは「好き」は「やりたい」という形で動詞化される。なんかかっこいいな、と思ったときに、それが「姿形や肩書き」に過ぎないかどうかは、やってみればわかる。たとえばその関連の本を数冊読み続けられるかどうか。続けられれば本当に興味があるのだし、好きなのだし、好きであれば続けられる。「山月記」にもある通り才能よりも続けられることが大事だし、続けられることの大元のドライブは好きという気持ちである。本当に難しいのは、「好き」と「憧れ」は初期値ではほぼ見分けがつかないことではないだろうか。それに、地元では天才と言われた子供が都会では相対的に普通だったり劣等生だったりということが、芸大や高学歴大学ではよく起こることでもある。

(引用者注:親戚や友人など限られた範囲の中で用いられていた)この相対的優位性のものさしは、これを職業にしようと思った瞬間から、世の中にたくさんいる「自分はクリエイティビティがある」と思っている連中との比較で用いられることになります。そうなったときに本当にやっていけるのかどうか?ということは、実はしばらく経験してみなければよくわからない。勝てるかもしれないし勝てないかもしれない。すべてはやってみなければわからない、ということです。

これは「さあ、才能(じぶん)に目覚めよう Strength finder 2.0」にたいする批評的な視点にもなるだろう。SF2.0はあくまで自分の主観的な判断しか問われないから、本当に自分がそうなのか、そうありたいだけなのかも客観的には分からないし、他者との比較、マーケットからの評価というものが入ってこない。SF2.0でクリエイティブな人だ、ということになって、じゃあ放送業界でディレクターをやろう、と思っても、狭き門だったり、下積みでは仕事量が半端ないわりに手取りが少なかったりして、周りにいる「本気で好きな人たち」や本当に才能がある人たちと自分を比べて心が折れたりするだろう。この心が折れるところまで含めて、やってみなければわからない、ということだろうけれど、心が折れる絵が見えている場合、よりそこに憧れがあればあるほど、足がすくんで「やってみる」ことができないのではないか。「山月記」の李徴はこれだっただろう。あると信じている才能を否定したくないし、されたくない。だから他者と交わって切磋琢磨しない。この憧れと心折れる絵のギャップをどうしていけばいいものか。心折れて自殺しないためにはどうすればいいか。次の一手、を常に打ち続けることか。これがだめだったらあれ、と、その場所からジグザグに動くことか。その方面での才能がなかったことはもうしゃあない、とあきらめて、そこから見えてくる次の才能(今まで見えていなかった才能)や、まだ手持ちであきらめていない才能にかけていくことなのか。それにしても、ひとはいろいろなことにあこがれを持ってしまうから、「本来の自分らしい自分」を探り当てるためには総当たり法で行くしかなくなってしまう。でも、時間は限られている。しかも、ある程度適正がわかるためにはある程度の時間を努力しなければならない。そこに読者としては矛盾を見る、どうしたらいいのか分からなくなる。

(略)ある職業が求めるスキルやコンピテンシーについて外から理解するというのは非常に難しいことで、個人が社会に出て発揮できる強みや能力というのは、結局のところ、実際にその仕事についていろいろと試行錯誤を経てみなければ結局は分からない、ということです。

「自分は何が得意か?」という問いは、(略)その問いに答えるために一日部屋に閉じこもって沈思黙考しても、あまり有益な示唆は得られません。とにかく運動量=モビリティを高めることで、いろいろと実際に試してみなければならないのです。

試行錯誤をしないと、本当に続けられるものかどうかもわからない。好きと憧れの違いは外への働きかける前から本当は自分の中で見極められるものなのかもしれないが、たぶんわたしはその違いに盲目である。

(略)往々にして人は「自分が好きなこと」と「自分があこがれていること」を混同している(略)

例えば「問題の解決策を考えるのが好き」と主張して、経営コンサルティング会社への転職を希望する方は大変多いのですが、そういう方に、では最近考えている問題を取り上げて、どのような解決策が適切なのか、あなたの考えを教えてください、と降ってみると、まともな回答が返ってこないケースがままあります。

これは典型的に「好き」と「憧れ」を混同してしまっているケースです。ご本人にとっては紙一重なのですが、「コンサルティング会社で問題解決している自分」のイメージにあこがれているだけで、問題解決と言う営みそのものを日常生活の中で愛好しているわけではないのです。「コンサルティングファームの社員になりたい」のであって「コンサルティングをしたい」のではない、という言い方もできるでしょう。

本当に問題解決という営みそのものを愛しているんであれば、仕事上の要請を離れても、勝手に自分で、例えば社会的な問題について問題を設定して解決策を考える、ということを繰り返しているはずなので、「問題は何?どう解決すればいいの?」といった質問を投げかければ、一晩中でも話し続けられるだけのストックを持っているはずなんです。

「御」本人にとっては紙一重、という言い方が非常にニヒリスティックに聞こえるし悲しい。ここで書かれていることはおそらく部分的に正しいのだと思う。だけれども、ほっておいても勝手にやっている、というようなメンタリティは、よいこであるべきという別のメンタリティによって完全に抑圧されている場合があるのではないか。ひとは必ずしも自分の価値観に沿って行動しない。ACTでいうデーモンが、「死にたくない!」という生物学的な強い思いから、「失敗したくない」「ミスを犯したくない」「否定されたくない」とささやきかけてくる。そのデーモンが使う一番強い呪い言葉が、「もしそれをしたいならすでにやってるはずじゃないか」「好きだったら強制されなくてもやってきたはずじゃないか」というものではなかったか。 The Happiness Trap: Stop Struggling, Start Livingから引用すると、

In particular, you need to watch out for this sneaky thought: "If this were really so important to me, I'd be doing it already!" This thought is just another "reason" in disguise. The reasoning goes something like this: "I haven't taken action up to now, which means it can't really be that important, which means it's not a true value of mine, which means there's no point in putting any effor into it."

This reasoning is based on tha false assumption that humans will naturally act in line with their values. But if this were true, there'd be no need for a therapy such as ATC. The fact is, many of us don't act on our values for long periods of time: months, years, or even decades.

特にこの巧妙な考えには注意が必要です。「それが私にとって本当に重要なことなら、もうすでにやっているはずだ!」この思考は、またしても偽装した例の(やらないための)「理由」に過ぎません。詳しく言うと、こういうふうに推論がつづきます。「今まで行動を起こしてこなかった、ということは、そんなに重要なことじゃなかったはずだ、ということは、これは私が真に価値をおいていることではない、ということは、それに力を入れる意味がない。

この理由付けないし推論は、「人間は自然に自分の価値観に沿って行動するという」誤った前提に基づいています。しかし、それが本当ならば、ATCのような治療法は必要ないはずです。実際には、多くの人は数ヶ月、数年、場合によっては数十年もの長い期間、自分の価値観に沿って行動しないことがあるのです。

 私が思うに、「言われなくてもやってしまう」ことを見つけられる人は「強い人」だったり、「幸運な人」だったりするのだと思う。幸運というのは、そういう環境を与えられた(親だったり学校だったり)。そして、それを見つけられないで苦しんでいる人も多いんじゃないだろうか、と思う。だからこそ、あこがれだけでコンサルティング会社に入ってしまうし、そこで実は問題解決が得意じゃないことを知って心が折れる人もいるんだろう。問題は、心を折れた後に、どうやって自殺しないでいるかではないだろうか。やってみて、それが自分の得意や好きや価値ではないことを知ったら、その失敗や挫折にしがみつかずに、どう舵を切り替えるか。ボートのオールの方向を変えるか。それも、巧妙なデーモンのささやき(お前にはもう何も残ってない、死ね)に耳をとらわれずに。

(略)「自分は何になりたいのか?」と「自分は何がやりたいのか?」は、ほとんど同じ質問に思えるかもしれませんが、実は全く異なる質問だということです(略)めでたくあこがれの職業についたとしても、その仕事が本人にとって「好きで得意」なことかどうかは、分かりません。なんといっても職種や社名に対するあこがれが先行しているわけですからね。

一方で後者の問い、すなわち「自分は何がやりたいのか?」について、本当にしっかりと見極めができれば、それは職業選択の大きな軸になるでしょう。なぜかというと、世の中的な評価に惑わされることなく、自分がやってみて嬉しいことを追求できるからです。(略)どの職業の年収が高いとか、どの職業が持てるかといった状況は、今後の世界ではどんどん変化して行くことになります。もし、ある職業に対するあこがれが、世の中的な評価に影響されて形成されたものであれば、世の中の評価が変わると、自分の憧れも霧散してしまうことになります。そんなことが起きれば悲劇としか言いようがありません。

しかしもう一方の問い、つまり「自分は何がやりたいのか?」という問いに基づいて選択された仕事の場合、世の中の評価の変遷にはあまり影響を受けることがありません。

ここでわたしは混乱することになるのです。やってみる、外へ出て天からの声を聞いてみる、ということは、自分に対する世の中の評価ではある。それを得ないと、結局「好きで得意」なのか「憧れに過ぎなかった」のかは、なかなかわからないのではないか、という主張が一方である。もう一方で、好きなことをやっていれば世の中の評価の変遷は気にならない、という主張もある。さてどちらか。ゴッホの話ばかりして恐縮だけれども、好きなことを見つけていたはずの彼は自殺することになる。それは世の中の評価、そしてそれに結び付いたカネ(サイバラさんにならってあえてカタカナで)が彼に与えられなかったからであった。長い期間画家として暮らして、無理だった、だからかれは諦めるべきであったか。あきらめずに副業とすべきだったか。やはりそれは収入とやりがいのあいだの、いわゆる幸せな妥協点、を探すしかないのではないか。

(略)職種のタイトルではなく、そもそもの仕事内容が「好き」という場合、長い期間にわたって継続的に努力できる、という強みがあります。これがなぜ強みになるかというと、長期的な努力は才能を帳消しにするからです。

山月記」のテーマでもある。李徴よりも才能のなかった詩人が、努力の末素晴らしい詩人になり、努力をしなかった李徴は虎になって終わる。継続的努力は内面的な報酬によってよいループを上がっていくが、それは決して外面的な報酬体系ではない。(「自分のたしなむものぐらい、自分でつくりたい」ということを諭吉佳作/menさんが言っていて、その内面的報酬体系(と才能)だけからあれだけのすごいものが生まれてくる)

(略)給与という形で報酬をもらうと、本来好きでやっていた仕事ですら輝きを失ってしまう可能性がある(略)

例えば音楽の世界では、子供に褒美を上げて練習をさせてはならない(略)。その子自身が持っている「楽器に向き合う」「上手になるのが楽しい」という内発的な動機を麻痺させてしまう恐れがあるからです。

だから給料が高いほどいい、というわけではない。

先述した通り、キャリアは長い年月をかけて少しずつ積み上げていくものです。大事なのは、自分にとって自己を駆動するための内発的な動機付けを維持することなので、報酬と成果のバランスには注意が必要です。

経済的報酬ではなくレピュテーション的な報酬もある(これもまた時代で変遷する外部の評価、を気にするな、というメッセージとすくなくとも表面的に矛盾してしまうけれど…)

自分が何かの意思決定をしようとしているとき、その選択は本当に内発的な動機なのかどうか、を今一度考えてみる、というのも、転職を検討する際の大事なポイントだと思います。

幸福について:

「三大幸福論」が共通してしあしているのは、肩書とか会社のステータスが大事だという事ではなくて、「世の中に確固とした価値を提供している。誰かの役に立っている、必要とされているという実感」が精神の健康を保つためには必要なのだ、ということです。

「誰かの役に立っている」というのは実は外部評価や外発的な動機にみせかけて、実は内発的な動機付けと近いのかもしれません。ほとんど宗教的に、自分がやっていることが世の中に役に立っているのだとまず信じること、そしてその次に、実際に人が喜んでくれること(そしてそこに経済的報酬がともなって「こないこと」。すくなくとも、多額には。)

内発的な動機付けを大切にしながら地道にやっていかないと、人生百年時代を、マラソンではなくスプリントレースみたいに走ってしまい、疲れて自殺することになりかねないだろうと思う(なんでもすぐ自殺っていうな私。)そういう時代だからこそ、

このような世界(引用注:人生がスプリントではなくマラソンになった世界)にあって、職業選択に当たって「地道な努力を続けられるかどうか」というのは、実は最も重要な着眼点になってくる可能性があります。そのためにも、「じぶんはなにがやりたいのか?なにをしているとたのしいのか?」という質問のほうが「自分は何になりたいのか?」という質問にょりも、はるかに重要(略)。

とはいえ、まだやったことのない仕事を選ぶに際して「自分は何がやりたいのか?」「自分は何が好きか?」という問いを向きになって考えても仕方がない気もします。というのも、当たり前のことですが、その職業なりの面白さや楽しさというのは、結局のところその仕事をある程度までやり込んでみないとよくわからないからです。(略)

柔道や剣道など「道」と名のつくような技術体系は全般的にそうですが、ある程度の奥行きを持った営みもまた、一定水準以上やり込んでみて初めて面白さが「見えてくる」ようになるという傾向があります。(略)

(略)その職業なりの面白さというのは、やはり3年程度は経験してみないと見えてこないのではないか(略)

表面的な「楽しさ」「カッコよさ」だけに惹かれて転職したものの、考えていたのと違うからまたすぐに転職する、ということを繰り返していたのでは、いつまでたっても「自分は何が好きなのか」ということを理解できないのではないでしょうか。

自分が本当に好きなことがわかるまで、どんどん転職していくということは、居場所や帰属先としての会社というものがなくなるということで、そこに寂しさがあり、「無縁社会アノミー)」的自殺の引き金にもなりかねない。そこで著者は三つの鍵を出す。家族の復権ソーシャルメディア、宗教。家族回帰はどうだろう……個の時代を逆行しているようにも思う。子供と親の繋がりが今後より強くなっていくことがあるだろうか。離婚率はどうだろうか。あるいはどんどん離婚して(これも試行回数と考えて、やってみて)、より強いつながりを感じられる配偶者と巡り合う、ということだろうか? 子供は子供側からは選べないから、よりあいまいになる世の中で親を今後、より強く尊敬していくことは考え難い。親が子供を愛することはとても大事だし、親側が子供に時間を多く割いていくことになる、というのはそうだろうなと思うけれど……孤独に自分の人生を生きることを選ぶシングルの人たちの否定は、しなければいけないのであれば悲しい。ソーシャルメディアはどうだろう。10年前のインターネットなら体温のあるつながりがあったような気もするけれど、いまのSNSには大きな数の分断みたいなものしか感じられなくなった。そうなると宗教が残り、これなんじゃないか、という気がする。宗教というか、哲学というか……形而上的なもの、ちっぽけな人生や人間を超えていくもの、を共有すること……そこに希望を見出してしまうのはたぶんわたしがいま須賀敦子全集を読んでいる影響だろうか。

会社を居場所と考えることや、帰属先と考えることに対する批判は大きい。ほんとうに。でも、会社で(まったく異なる)ペルソナを被ることはやはり幸せになれないことだとは思う。

 一方で、いつも夢見がちでふわふわしたことを語っている人が、鉄道のような規律とルールと現実こそがすべて、といった職場に入ってしまうと、やはりこれはこれでなかなか難しいことになるのではないでしょうか。

最終的には、自分の本性とは異なるパーソナリティを仕事上の要請であまりに長く厳しく実践していれば、本来の自分を見失いかねません。

(略)

(略)社会的な要請に応じて表面的に適応させることが可能なのです。しかし、パーソナリティとフィットしていない組織に属したり仕事についたりして、一見、うまく適応しているように働けたとしても、本当の「仕事の幸せ」は得られないのではないか、というのが私の考えです。

やがては、仮面がはがれなくなってしまったピエロのように(略)アイデンティティクライシスに陥ってしまうのではないでしょうか。

 転職後のショックについて:エモーショナル・サイクル・カーブ。最初は盛り上がっているけれど、だんだん障害が浮き上がってきて、下降局面に入る。このとき、これはおたふくかぜみたいなもので、「勢いと楽観主義で臨めば、まあ何とかなるだろう」と鷹揚にのりきってしまうことが大事という。躁鬱の躁転のようなもので、転職後は新しい仲間ができ、新たなオフィスがあり、場合によっては給料が上がったりして、数カ月から半年は興奮している。高揚感がある。でもだんだん現実が見えてくる(「リアリティ・ショック」)。次の2つのショック、戸惑いがある。①「こういう仕事だとは思わなかった」という戸惑いと、②社風や価値観の違いに基づく戸惑い。①は、たとえば雑用が多いとか、そういう「イニシエーション=通過儀礼」を超えてこそ仕事が分かることがあると割り切る(「雑用の効用」)。「正統的周辺参加」といって、

周辺、つまりコアの仕事ではない領域から参加することを通じて、コア領域の仕事に必要な知識を少しずつ学習していく (略)

雑用や小さな仕事の中に、先輩たちが活躍している仕事のエッセンスが隠されている(略)

 という考え方がある。これは先述の石の上にも三年、と通じるものがある。一方で、そのつらさを毎回超えないと好きかどうかが分からないのであれば、「何事もやってみないとわからない」の底流である総当たり戦は、時間が足りなくなってしまいできないことになる。だから、やはりある程度は好きか憧れかの未明領域であっても、手あたり次第ではなく、なにかしら軸みたいなもの(それが嘘だったとしても)を持って優先順位を付けてあたっていかなくちゃいけない、ということになるのだろう。二つ目の組織のショックについては、フラットかヒエラルキーか、和か緊張か、という文化の違いだが、これは自分を失わない範囲で「まずは受け入れてみる」、「オープン」に「どんどん受け入れる」こと。「前のやり方のほうがいいのに」みたいに、前職のことを持ち出さない。前職にけりをつけ、「終わらせる」ことで、初めてなにかが「始まる」。わくわくするけれど不安な時期が来るけれど、そこを耐える。終焉→中立圏(混乱・苦悩・茫然自失)→開始、の中立圏の宙ぶらりんを耐えて乗り越えること。決して消極的ではなく、わくわくするけど不安でもある、と捉えること。