circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

非常に雑なメモ

鬱経済学試論

ファイナンス理論においてハイリスクハイリターンの原則、すなわち未来の収入が不確か(散らばり具合)なほど、その収入の真ん中の値(収益の期待値)が高いこと(高期待収益率)を求めるというものがある。

一方、私の身体と認識が語ることは、重い気分障害(鬱病)を抱えていたときほど、未来が綺麗にすーっと見通せ、それは落ちていく(というか0である、あるいは負である)収入、あるいは落ちていく幸福度であり、その光景は不確かさがなくクリアだったということがある。未来が透徹して暗い(このまま薬を飲んだまま私は回復しない、私はそして老いていく、ベッドから起き上がれないまま、親は、祖父母は老いて死んでいき、私は一人になる)ということだった。綺麗な絶望には不確かさはない。不確かさがない収入、あるいは「精神的」な収入(幸福の流列というものを私は考えた)の流列に対して、割引率は低くなるべきである。不確かさの少ない未来の現在価値は不確かさの多い未来よりは相対的に高いべきである。しかし、私は未来が確定的に暗い故に死にたいと思っている。この投資(人生)をやめたいと思っている。未来の流列をいち早く止めることが私の効用を最大化する。

そもそもいろんな前提のもとであるにせよハイリスクハイリターンの原則の前提は限界効用逓減の法則にある。ご飯の次の一口のおいしさはどんどん減っていく。そのため、確実に2口食べられる方が、50%確率で3口、50%確率で1口食べられるというケースより、期待値は2口と等しいにも関わらず、望ましいということになる(限界効用逓減の法則がハイリスクハイリターンの理論的前提になる)。

しかし、綺麗に未来の不幸せを見通しているとき、一口のご飯の意味は少ない。どうせ明日死ぬのだから。あるいは明日も一口の幸せを食べて、一日生き延びても、やはり明後日死ぬであろう。ここでおそらく重要なのは限界効用が逓増していることと、死よりも下の値がない(自殺の有限責任性)ということかもしれない。

鬱の最中にある一口と、鬱にない人の一口の価値は違う。限界効用逓減の法則に反し、後者の方が大きいのだ。いま一口について、収入と考えたり、精神的な幸せなフローと考えたり、曖昧ではある。精神的に幸せなフローが単位化できるのか(計測できるのか)、そしてすでに効用に近い言葉で語られているこのフロー量の限界効用を考えることに矛盾はあるかもしれない。しかし、絶望にある人にとっては、一か八か思考のほうが強くなるのではないか。つまり目の前の確実な一口より、不確実でも(10分の1でも)10口の方が嬉しいのではないか。確実な生活保護より、不確実でも自活できるチャンスに賭ける方が生きる活力になると感じる人がいるのではないか。そもそも、もし文化的な最低限の生活が憲法で保障されるならなぜ自殺しなくてはならないのか。それは、文化的に最低限の生活は幸せを保証はせず、生きる意志を必ずしも助けるとは限らないからであろう。

もう一つの問題は自殺の有限責任性、あるいは非線形性である。自殺は株式と似ている、あるいはオプションとにている。死より下に伸びる線はない。無限責任であれば、リスクは期待値を中心に下方にも存在するはずだが、因果応報や地獄がない限り、下方リスクは死で閉じる。これが先ほどの一か八かという話にもつながる。リスクのある選択肢をとって失敗しても死があるし、リスクのない選択肢をとって絶望を透視しても同じ死がある。となれば、リスクの高い選択肢のほうがおそらく価値が高くなる。いまあなたが自殺をしようと決めたなら、それを一日伸ばしてもあなたは自殺するだろう。しかし、自殺を一年伸ばして、うまくいくはずもない投機に自分を投企することにしたらどうだろうか。一年後も今のままなら自殺するしかない。しかし、一年後に100分の1の確率でも、光がある可能性はある。どれだけ小さくても、その事実はあなたの位置を少しだけ上げる。それが不確実性と非線形性があなたに与えるオプションの時間価値だ。

ここでわたしがいっているのはたぶん、役立たずだと思っても、生きていない、死んでいないだけだ、と思っていても、自殺を遅らせる決断自体に価値があるということ、そして賭けたほうがよいということ。

リスク回避的でなくリスク選好的なタイプの人間がいないわけではないし、ある低所得者層の人は高所得者よりギャンブルに嵌ることがあるかもしれない、ということはすでに論じられているが、私がここで言いたいのはおそらく、精神的なフローと金銭的なフローの両方についてなのかもしれない。未来に精神的なる価値のあることが見えた時に、それをいま得ていなくても