circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

ミクロ経済は効用というところへ心理学を単純にしたもので、金融理論は不確実な未来に対する効用というところへ心理学を単純にする。


キーツのいう、ネガティブな能力、ネガティブ許容力、は、谷川が言う、それは詩人は無個性でよくむしろ他のものや人の媒介たるべきだという意味だ、という議論の方向ではなく、むしろ個性も主張も強烈にあるからこそ苦しむ我々が、個性や主張とあいいれない不安な未来のなかで、自殺せずに生き延びる力、という議論の方向で考えられないか。自殺することを考え続けていた頃のわたしは、生きることという事象の価格付けは、現在の瞬時の喜びではなく、未来に続く苦しみの割引後総和として与えられていた。リスクを恐れる我々は金融学においても、未来の富を割り引いて価格を付ける。リスク中立な人間ですら、将来ずっと稼げなそうだという期待値が出るならば、それは割り引く前からマイナスだから自殺するしかない。とりもなおさず、鬱に入った人間が自殺しない根拠はリスク愛好的な効用関数を持つこと以外にない。たとえ将来CFの期待値が負であっても、生き続けること。きっとダメだけど、うまく行くことがあるかもしれない、というオポチュニスティックな視界を、選りに選って鬱病患者に持ってもらわなくてはならないという結論。


未来はランダムウォークではないけれど、そう考えることができたら、せめて、できたら。いままでの敗北をサンクコストとして切り捨てて、心理的負債をすべてウェーブして、真っ白に未来だけに賭けることができないだろうか?ポジティブ心理学のことを、考えなくてはならないし、そのなかに、夢を見続けた男として、必ずキーツはいるだろう。


病気の目のなかで美しく見えたハムステッド・ヒースを、キーツは歩いていた。病気のなかで恐怖に頭を抱いたスペイン階段のよこで、キーツは死んだ。きのう、そのことばかり考えていた。あの景色を、