circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

生きていたということを証として残すためにインターネットに何かを綴るという行為は10年前のわたしにはおそらく響いていたと思う。読んでくれる人は(特にコメントを残してくれたわけでなかったとしても)ネットワークの向こう側のモニターの向こうに私には確実に見えていた。いまやネットワークの向こう側にいるのは外の景色で、人たちはモバイルを見つめている。画面は確実に小さくなり、モニターは机の上にあって向き合う対象ではなくなった。たとえベッドに寝転がっていたとしても…ノートパソコンのモニターを寝転びながら横に倒して見ているとき、わたしはやはりネットワークの向こう側の人を覗き込んでいたのだった。視線の交差が、確実にあって、私たちは共犯者だった。その人口は少なく、いまよりも一人一人が孤独だった(孤独でない人間が当時どうしてネットワークの中に文章を投げ込んだだろう)。

いま、たくさんの人が孤独ではない形でたくさんの文や写真をネットワークに投げ込むようになり、ネットワークは投げ縄ではなく、土台になってしまったし、私の書くことを同じ視点で読んでくれる人はほとんどいなくなった。わたしがこの日記に投げ込んでいたのは精神的自傷だったかもしれないが、もう物理的自傷や物理的自殺が投げ込まれることは普通になっている。わたしは心配しながら見守ってくれる方たちを、投げ縄の向こうに持っていた。話したことのない、カウンターだけ回していく方たちと、わたしは繋がっていたように思う。