circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

https://m.youtube.com/watch?v=wSD6LsHFEk0


キリステ、エレイソンのことを、切り捨て、えれー損、と思った日があった。


フォーレのレクイエムには、どこでも、彼の他の作品ですら、聞いたことのない響きがあって、なぜここだけ、と思って生きてきた。たとえば13分からはじまるオードミネのコーラスで、長調とか短調とかいう感覚をわたしは失って、透明になるのだけど(13:42)、この音を響きを、いつも探しながら、どこにも見つけられない。



神を探しながら生きていた中3の最後に、バチカンのドームの真下で、階下から聞こえてくる少年合唱を聴いた時に、たしかに啓示というものはあるのだろう、と思ったのを思い出した。わたしは受けなかったけれど、体が透明になる感覚はたしかにあって、それは純粋に、音響設計の問題なのだけれど、それは死に近い解放だったように思う。性の境界に私はきっといて、生の境界(教会)でいちど死に渡る必要があったのだろう、か。またいつかわたしは性の境界を向こうに渡って、生の境界へむかうのだろうか。いまだに、性と宗教についての解決がつかない。


ワーグナースクリャービンにとって、和声を崩して行くことはエロティシズムに結びついていたのだと思うが、フランスにおいては…たとえばフォーレにおいては(ラヴェルにおいても)、逆に、神に近づくための手段だったようにも思われる。むつむことより、孤独になることを志向するために、響きを探したのではないだろうか。