circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

しぇへらざーど、もんとりおーる、でゅとわ、それはよく聴いていた演奏で。でも、あれ、こんなだったっけ、と、やはり、ぼくには、じぶんのしたいことがある。


モーツァルト20はなかったけど、25と40の例のワルターウィーンがあって、あのレからシへのポルタメントについて話そうかと思ったけれど、はなせなく、40−3のあの宇宙的な、どうしようもなく人智を超えた3拍子について話そうとしても、やはりなにも人に届かず、わたしはどうしてあの曲がそんなにも美しいかについて、なにも言えないのか、あるいは、届け先がちがうのか、頭は朦朧として


飯田橋ヴェローチェ、H君と話す、前に、本を読んでいたら、ふぉーれの夢のあとに、がチェロで流れてきて、僕の頭に、古澤先生の声が響いて、それはとても悲しかった(むかしから先生、と生徒の叔母から聞いているのでどうしてもあの人を思い出すときには、先生とおもう)。あのふるい録音、あの古いピアノ、あのくぐもったフランス語、どんなフランス人の発音よりも、僕には美しく聞こえた、どのえんそうよりも彼女と、井上さんのピアノは美しかった。溜息というものはああいうものをいうのだろう、けれど、いつも、古澤さんの、夢を見るためには、演奏家は起きていなければなりません、という内容の言葉は、わたしを苦しめ続ける。


夢のあとで―フランス歌曲の珠玉 古沢淑子伝 (スペース桐里BOOKS)
http://www.barks.jp/cdreview/?id=2000124568
このCDのビリティスや、夢のあとに以上に美しい演奏が、ありえるとは、とうてい、思えない。


古澤さんの声は、歌わないで歌っていた、いま、必死でytで夢のあとでの演奏を聞き続けているのに、すべて歌いすぎていて聞くに堪えない。うたってはならない、ただ、溜息のように、時間の伸縮など感じさせず、ただ、流れていくのに、それは、気づかれずにやはり伸縮を実はしているというような、流れ方


最初の6打で緩急をつける演奏はまずああだめだと思ってしまい、歌の最初の3音で歌いすぎる演奏も、まずああだめだと思ってしまう。6打のあとでうたが入る、そーどーれーみbー(昔からこの調で聞いているような気がするが、古澤さんのCDだろうか、チェロ版をひいていたからか。)の、みbまでは、おとなしくなだれ込んでほしい、そしてこのみbがなる瞬間のピアノのベースの、なんというこれはうつくしさだろうか。フォーレにしかかけなかったような、この和声の響き、ほかにも書いた人がいるんだろうか、こんな和音がかけたなら、生きた価値はあるきがする、もしぼくに。このバスをどう響かせるか、それだけがこの曲の総てだとぼくは思っているのだけれど、これがうまく時間をたもっている演奏が無い。


カザルスでもないきがする



ロストロの演奏はなんか近い...そのバスにおいて。ただ、そこでritかけてから、でも、またa tempoしてくれないと困る(!)。夢は一瞬、なのだ



探しているうちに初恋のひとに出会う、こんなに美しく音楽をするひとが、いたのだということを、わすれてはならない

この10:35のとんでもないうた!そのあとの信じられない瞬発力!

それに、4:30からの明るい部分の、だんだん盛り上がって、そして瞬時短調がはいり、盛り上がり、音階を駆け上って5:12に現れるソの音の美しさ。もういちど谷に入り、こんどもういちど同じかたちで音階を駆け上がってもう一度5:45でソの絶叫(これはバルビローリ版のほうが圧巻で、もうきいているほうが叫びたくなる音がする)のあとの、弱音ドの美しさ、その瞬間(6:03)の彼女の瞳に浮かんでいる憂いのなんともいえない、なんともいえないけれど、これのためにわたしは生きている。
バルビローリ指揮のもとではもっとおおらかに歌っていて、生き生きという意味では劣るかもしれないが4:32ぐらいから聞いてみよう。

この4:52のソ音の美しさはこちらのほうがひびいているし、その後のドのせつなさ、そしてまだ続くうたのあとのソの前のファ#(5:34)の思いっきりの溜め、ああ、これこそジャッキーだ!!彼女にしかできない事だ!!その溜めのあとに、どうしようもなく切ない(現代のチェリストの感覚ではほとんどノイズみたいなきつ過ぎる音の)ソ音がくる。そのあとのドの急激なピアノ感、絶叫するしかない。この憧れ。憧れとしか言いようが無くて、中学生のとき、こんなものを聞かされたら、恋以外するほかはなく、チェロを買ってもらうよりほかに無かった。


彼女のボックスが出たときに、中学生のわたしはひたすらにこの写真に見惚れ、あの激しいノイズ(彼女の演奏はむしろノイズ部分に美しい部分があると思う)に聴き惚れた。あの最期のショパンの演奏。中のぶっくれっとに書いてあった、だれかが、彼女を最初に見たときの感想、「こんなに憂いにみちた顔をしている人を観た事が無いと思った」というような。それ以来、私の美の概念の中心には憂いというものがあり、それしかない。この写真に見える、微笑みに含まれた憂いの、なんという美しさだろう。ことばにかえる事ができない。このひとが、エルガーのコンチェルトを弾くときのあの、とんでもない憂いよ。