circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

心のドアを叩き続けている音がする。とん、とん、とん、とん、とん、とん、とん、とん、とん、      とん、とん、とん、音の上に長い息。いまにも消えそうに。大きな爆弾が落ちて、人びとがみんな死んだあとに、壊れのこった時計が静かに回っている。廃墟の中で動いているものはそれだけ。高速道路の工事が始まる。夜のあいだに。誰も寝静まり知らないあいだに、高速道路の工事が終わる。階段が消える。




夢だったんだろうか。僕は後ろの海ばかり見てつぶやいた。
君は自転車を坂を滑らせて。海の向こうにはひとつの大きな鯨が泳いでいる
と言った。あの青のした。

いま僕の隣を自転車を坂に滑らせる君はいない。
僕は一人で歩き続けた。

遠い銃声、連射が壁を射抜く。敵は誰か分からない。敵も敵が誰か分かっていないのだろう。殺すために殺している。いまも遠いどこかで。

白い砂浜で遊んでいるひとたちは砂に溶けて白かった。






幸せに生きていても、幸せに生きているふりをしているわたしをカプセルのそとでせせら笑うわたしがそとにいる。幸せなふりをしてきもちわるいという。言って転がしたり握りつぶしたりする。


 


お葬式になるかねのおとを聞いているみたいだった。


 


昨日、葬式の鐘のように聞こえていた音が、今日ひる起きてみると、自分がまだ産まれていないみどり児になって、処女の胎内から聴いている鼓動のようだったと思った。


 


みどり児がわたし自身かどうか、わからない。それを見ているわたしがここにいるからだ。


 


おなかのなかで鼓動のような音を聴きながら、動けなくて、ご飯を食べないで布団にくるまりながら、本を読んでいたら、犬の声がした。白い犬が遠くの山奥で放し飼いにされていて、修道院を守っている。


 


護られている?


 


恐ろしく頭の良い嬰児が、無邪気に笑う。被写体は本当に無邪気なだけの赤ん坊だったとしても、そのうしろにある、全て知っているという想定の不気味さ。
もうすこし、赤ん坊についてかんがえる必要がある。性について考えるとき、いつもマリアのことを考えていたわたしは、胎内のイエスの視点でものを見ていなかった。イエスはどんな音を聞いていただろうか。フラ・アンジェリコはそこまでは描かなかった。


 


胎内に育まれたみどり児は生を内包してまだ死のなかにいる。羊水(、そしてまた羊)死んでいる。認識のなかで。でも息をしている。


 


すべての音がナザレへつながって行く。微笑みをうかべたみどり児が静かに息づいている。星があり、三賢人もやってくる、その下を。オンド・マルトノは、ナザレのよぞらのおとがする。


 


星空は降らせる。光の線が静かに流れている。それは息づいている。星空が降らせる光の構造のあいだを精虫が筋を残して優雅に泳いでいる。それは三匹いる。おのおのが勝手に泳いで、ひとびとは寝ている。処女も寝ている。夜。

星があり、降らせる空間の空間のなかへ立ち現させる、エレベーション、、が起こる、アスコルタ、アスコルタ、

アセンテーション、。泳ぐ精虫を空にみる、彼等は、光線を縫って、光線に励まされている。ひとはみていない。静かだからだ。起きていない。わたしは、あなたは、起きながら、ねていて、おきていて、見ることができる。息づいている、存在の代名詞として、確率変数の一としてのみどりこをみることがてきる。一であればみどりこであるし、ゼロであればない。であって、ない。すべての存在のうしろに、透過性のみどりこがいて、濃かったり薄かったりしながらいきをしている。死にながらいきをしている。


 


それはガラスのような音がしているけれどもガラスではない。それはとてもガラスのような音がしているけれどもガラスではないので割れない。それはガラスのような音がしているけれどもガラスではないので砕け散らない。それはガラスではなくガラスのような光を放っているけれども、触れることはできない。それはガラスではなく光である。ガラスのような光を放っている光そのものであるようだ。

割れないのでこころも割れない。とても穏やかだ。凪いだ海のように。波が遠くいつまで繰り返すように。くびをかしげ、くびをかしげ、くびをかしげる。あなたは考える。あなたのまえにわたしはいない。わたしは、でもあなたを見、あなたに触れ、あなたを聴いたとおもう。あなたは愛されたみどり児であって、あるだけで赦された。ときとところをまちがえたひととしてあなたは有った。あなたはすべてのこがれとあこがれをわたしからひきだしてそのまま消えた。始点だけわたしにのこった矢印は、終点をどこにむければよいかわからない。とりあえず空に向けているんだとおもう。あなたが偶然ここをよむことがあるかもしれないね、そういう投げ瓶のようなことをわたしはしつづけている。でも、投げ瓶は星の光線のたけひごに庇護されて進み、あなたにちがうかたちで届いているような気がわたしはしています。こんなにわたしがいまだにあなたのことをわすれられないという念のようなものは、なにかのかたちであなたに落ちているにちがいないのです。





わたしは、愛されるという行為によってではなく、すべての存在に透過して遍在する確率変数としての微笑みのような、行為ではない、無根拠の理屈で、愛されているし愛されていたいと思う。それをかみさまとよばせてください。





海=産み=mar=mum。海はmをともないまるくまろやかである。オンドマルトノとヴィブラフォンの不安定でいて安定した丸いヴィブラート。エヴァンジェリストが話すとき、うしろに流れる星空のようなユニゾン。ひとびとによって曖昧に信じられているということは、ものがたりが作られる以前から信じられる素地があったということ。それは素地だからマールで海であいまい。集合的無意識と繋がれること。ま。





そこに死があるけれども、かつての青春の真っ只中の死ほど吹きすさんではいない





星の光は注がれる、注がれる。安らかに寝ている、星の息子たちに。温かい繭に包まれた、かれらの微笑みの上に、ゆっくりとした鼓動が、光の律動が、透過する遍在の愛が、遠い宇宙から、あるいはかいばおけの真上から、あるいはバスケットボールと同じいろとかたちの月から、なみなみと注がれている。





音には力がある。あるいは恐ろしい、あるいは優しい。筋や論理のいちばん底にある公理のようなもの自体を、われわれは疑いながら進んでいるので、繰り返すしかない。そのとき筋や論理はそんなには走らないのだとおもう。公理のそれらしさは、結局感覚でしかない。平行線はほんとうに交わらなかったのだろうか。はなればなれの人と、何の根拠もない、愛し合っているという確信を、人はどうして持ち続けられるのだろうか。




(再録、村上春樹1Q84への感想文として)