circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

「主の降誕」の何番目かの曲を、たしかに繰り返し聞きながら1Q84を読んだのだけれど、あのとき、「世界の終わり」も聞いていたし、トゥーランガリアも聞いていたので、世界観がそれらのどれかととてもリンクしていて、しかしなんであのとき、僕は寝続けていたのか、働いていたはずなのに、ねつづけながらQをよんで、メシアンばかり聞いてて、Q=メシアン=胎児としてのみどりこ、となっているのだが、いったいなんて完璧に選曲したんだろう。ときどき読書するときの選曲眼だけは自分に対してのみ自信がある。ほかの誰に誇れるというのか。


最後の曲の、Jさんがオクターブで下降したときの両足の動き、精一杯の一歩、あの、最後の和音を小さな身体全部で踏みつける感じ、本当に、わたしも一緒に踏みつける感じだった。あるべき響きと響きの連結のタイミングは、針と針の先端を合わせるように、そこでしかなく、それがそこでしかない事は、聴衆の了解を得なくてはならない、というよりも、聴衆に、そこが了解ポイントである事を、巻き込むような現象を前に起こしておかなくてはならない、とSGなら言うのだろう。