circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

第一次世界大戦の中のラヴェルのトリオと、第二次世界大戦の中の時の終わり四重奏を並べてある、人の文章
捕虜の立場のメシアンと、今から戦争に向かう(志願する)ラヴェルは違うとも思う
思いつつ、死はそこにある、二人の前に静かにある
トリオの3楽章を聞こう
http://www.youtube.com/watch?v=uc7yXxOHQgE&feature=youtu.be&t=13m14s
最良のラヴェルはいつも、水晶でとじ込めた過去の響きがある
それは、生き残った者が遠く死んだ人たちを思い出す響きだ
と思ってきた ここにはそれがない
それはよくないラヴェルのしるし(水の戯れ…ボレロ…鏡(道化師以外)…)なのだけれど、この曲だけはそうではない、ここにあるのは、
懐古ではなくて、現在そこにある死を歌っている唯一の、唯一の
16:53で起こっていることはそのままメシアンの時の終わりに流れ込んでいいものだ、
(16:56のピアノの左手が過剰に調性的でないでいてくれれば…)
このチェロとバイオリンの叫びは、あの、死と神が同時にあるというメシアンまで本当にすぐそこであるものだ、



現代音楽は許さない、と、あるしゅの音楽家たちはシェーンベルクの昔から言い続けていた
(そしてわたしも現代音楽についてはほとんど不感症であり、歴史の端境期にいたコルンゴルト初期とスクリャービン中期を愛する)
それは「最近の若者は」とほとんど変わらない発言であるともいえるのだろう
不感症なわたしも、メシアンは現れなかったらそれはとても大変なことだったと思う、
第二次世界大戦の収容所で響くべき音楽が、メシアン以前に作られえたとはどうしても思えない、
それは、現代のそのしゅの音楽家もたぶん認めうることだろうと思う、
何より美しいのは収容所の聴衆がしずかに聞き入ったという沈黙こそ
聞き終わった後の拍手こそ
そこにあった共感こそ 何より美しく真実だったと思う
わたしはほとんど不感症だけれど、時の終わりに関しては、「あの場」にいたものとして、共時の感想を抱くことができる
「あの場」にはいなかったのに