circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

takemitsu, his lumiere

私が武満という人を発見するのは2006年だから10年もたってしまった。実際に日本のふつうのクラシック好き(現代音楽好きではなく)に武満が広がってきたのもようやく今頃のような気がする。私は、彼は21世紀のベクトル、21世紀をてらす光だと思う。無調だが、難解ではなく、やわらかく微笑んでいるような音がする。飛翔せず、浮遊する。鼓動せず、存在する。この世とあの世の間に夢として存在する、映画館のような音楽。存在。時光。



時光/Lumiere、というホウ・シャオシェンの言葉を置くとき、私はいつも21世紀の匂いをかぐ。動物的、動くものとしての生き方が終わり、静かな共存としての生き方が始まる。といいなと思う。例えば男女関係が、嫉妬や駆け引きといった19、20世紀の要素ではなく、ただ近くに存在して、この世へ私をつなぎとめてくれるブイ/buoyになってくれればいい、あの世へ沈んでいかないために、つなぎとめてくれる女の人がいれば、私は彼女に対して、征服や独占や劣情を抱きたくはない。彼女が他の人とセックスをしたければすればいいし、だけど、そこには必ず彼女のbuoyがわたしで、わたしのbuoyは彼女だという、ある「確信」のもとであれば、セックスも恋も冷めるものに決まっているのだから。恋ではない、時光をともにする存在として、セックスしなくてもいいからその大切な人と一緒に住んでいたい。肌をよせあわなくったっていい。一緒にいて、同じことを感じてくれる人である限り、それでいい。同じことを感じられなくなったときが別れ目だと思う。たとえば一緒に映画に出かけてくれなくなったときなんか。会話を楽しんでくれなくなったときなんか。存在として避けられるようになったときなんか。だけど、これらの要素は本来友情と土台を同じくしているし、恋は必ず消えるものだけれど、友情は同じ場所にいる限り、喧嘩しない限りは消えない性質を持っているから、不倫に嫉妬しない限り、そういう時光共有としての結婚関係は終わることはないと思う。思いたい。



武満の音楽は、不協和音のいがみ合いの中で微笑み続けている。怒りや暴力性をもつ人間存在を認めた上で、世の中に戦争がおわらないことを認めたうえでまだ微笑んでいる。武満は個人として反体制であり、個人として反戦争であり、そして個人として彼の感性を時と光のなかに任せている。決して彼個人の感性を例えばナチズムにひったくられることはない。感性、そう、感性だ。自分自身の感性だ。いま感動しているのは本当に自分の感性か、それとも集団的強制的感性なのかについて、敏感になることだ。おそらく。


もうすこし書きたいけれど私の力が尽きた。


彼は鯨になりたいと言ったのだ。



「鯨のような優雅で頑健な肉体を持ち、西も東もない海を泳ぎたい」武満徹



ほかのだれが鯨になりたいと言っただろうか。
ほかのだれが優雅と頑健を並べたろうか。


優雅でかつ頑健な精神のみが、国境を越え、いがみ合いを超え、
時光を貫いて21世紀に残り続けるのだと思う。
武満は1996年に死んだが私の中では彼は明らかに21世紀の作曲家だ。
21世紀の人だ。