circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

文藝別冊「須賀敦子の本棚」より四方田犬彦須賀敦子と詩的なるもの』より

須賀敦子の著作を見渡してみると、ミラノや、ヴェネツィアナポリトリエステと、イタリアのさまざまな都市を表題に歌ったものはあっても、ローマはそこから脱落している。ローマは彼女にとって最初に滞在した都市、無名の留学生生活を過ごした都市であるもかからず、ほとんど言及されることがない。わずかにローマっ子モラヴィアの自伝に、短い書評が執筆されているばかりである。須賀敦子という人は、生涯にわたってローマへの警戒心を解くことがなかった。ローマで知り合った人物について書くことも、ローマの絵画や建築を回想することもなかった。」鋭い指摘だな、たしかに須賀さんはあまりローマのことを書いていなかった気がする…と思うが、ローマで知り合った人物について書くことがなかったか。と考えた鼻から、ペリクレ・ファッツィーニの名前が浮かび、小野田宇花さん(Oさん)の名前も浮かぶ。あの美しいエッセイ…ファッツィーニのアトリエを探してローマのその街をさすらう美しい描写は印象深い。それから、ローマの寮で精神不安定になった韓国人寮生キムさんをなんとか助けて帰国を手伝う話があった。その量をなんとか自力で抜け出した次の寮で、修道女マリ・ノエル院長に寮の家事を申し出るも、「でも、あなたより数層倍、パオラは家事が上手です。あなたには、あなたにしかできない仕事をしてほしいの。まさか、あなたはパオラの仕事のほうが低いなんて考えてないでしょうね」。代わりに須賀はマリ・ノエルに週に二度、日本やヨーロッパについての考えを話すことを「仕事」として与えられ、考えを深めて行く話。その寮ではヴェトナム人の修道女テレーズとの出会いも書かれている。ヴェトナムは、完成しなかった遺作「アルザスの曲りくねった道」の重要な舞台の一つになるはずだった。主人公オディールは聖心でフランス語を教えていたフランス人オディール・ゼラーがモデル(知り合ったのは須賀の帰国後)と言われているが、この論文https://toyo.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_action_common_download&item_id=12090&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=13&block_id=17 によると創作ノートの4番に「「OdileとMarie Noel(Zeller)を合体させる」もしくは「Odileと友人のMarie Noel(その芯になるのはO.Zeller)」とあり、引き続き論文から引用すると「この「マリー・ノエル」について、「アルザス」の構想を打ち明けられていた編集者鈴木力は、須賀から 「ローマで出会ったシスター」で「ヴェトナム生まれのヴェトナム人」だと聞いていた」とのことで、鈴木力氏のいう「マリー・ノエル」がすでにマリ・ノエル(フランス人)とテレーズ(ヴェトナム生まれのヴェトナム人)のあいのこになっている。「アルザス」は須賀のローマ時代も照らし出すことになったのだろうか?また、須賀が意外なほどの感動を述べるカラヴァッジョの「マッテオの召出し」はローマの絵画である。 そして有名な誰がマッテオなのかという美術史上の混乱について、今有力な説と違う人物をマッテオと解釈する一方、現在マッテオだと考えられている方の人物にむしろ関心が向くところに須賀の感性の面白さがある。「私は、キリストの対極である左端に描かれた、すべての光から拒まれたような、ひとりの人物に気づいた。男は背をまるめ、顔をかくすようにして、上半身をテーブルに投げだすようにしていた。どういうわけか、そのテーブルにのせた、醜く変形した男の両手だけが克明に描かれ、その手のまえには、まるで銀三十枚でキリストを売ったユダを彷彿させるような銀貨が何枚かころがっていて、彼の周囲は、深い闇にとざされている、カラヴァッジョだ。とっさに私は思った。ごく自然に想像されるはずのユダは、あたまになかった。画家が自分を描いているのだ、そう私は思った。」ユダ!そして同じエッセイでナタリア・ギンズブルクとその家について、また家に至る街の描写もあったと思う。ナタリアは作家としての須賀敦子の精神的な師であり、著作と出会うのはミラノでペッピーノの手から渡されたが、本人と出会ったのは多分ローマの家だったのではなかったか。ユルスナール経由ではあるがサンタンジェロ城の地下への階段に、観光客たちが入っていかず、須賀だけ孤独に降りて行く描写。パンテオンの「穴」についての強い思い入れ。ローマ法王コンクラーベについても書いていたが、留学当時だったか。興奮したローマの街の描写。数少ないけれど、いくつかの須賀のローマが思い浮かぶ。思うに、私にとっての須賀敦子は、「自分は誰なのか」を探し続けていた、ミラノや夫ペッピーノより前の魂であるように思われる。全集の第8巻の「聖心の使徒」に掲載したエッセイが、須賀が「包み隠す」(cover)していた須賀自身のさすらいを露わにしていて瑞々しかったことなど