circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

具体的、に対する恐怖。選択、に対する恐怖。自分のことは自分で責任を取れ、というクリシェ、はクリシェゆえに心に響かぬ。命にかかわれば働かざるを得ない、しかしそこまで墜落するには時間がかかる、そしてさまざまなものを失う、もちろん時間、それから経歴。かといって危機感はない。漠とした不安だけがある。

「私」は私のものではなく、誰かから借りてきたもの、と今までなんとなく思っていたような気がする。私なんかに貸してもらってよかったのだろうかと思う。借りたからにはなにか立派なものにしてあげたいとは思うけれども、どのように立派にしようかということは依頼がないので思いつかない。恋人がいる。借りてきた人のように思う。私は責任が取れない。何にも取れないよ、と思う。私が本当に私のものにならなければ、何にも責任なんて取れるはずがないと思う。

まず私を私のものと認識しなくてはならないと思う。私は神様のものではない。私は世間のものでもない。私は宇宙でたった一人ぼっちで、世界は荒廃していて、ひとりだけ生き残って何をしよう、となったときに初めて私だけのものになるのか。そこまで危機が迫らないといけないか。私は私に責任がない、借りてきた私には責任がない(借りてきた私、など本当は存在しないので)。その認識の上で、私は私に責任を持てるのだろう。話は抽象的になるばかりだ。私探しの宇宙にもぐりこむばかりだ。好きなものはラヴェルとルドンなのだけれど、それさえ借り物かもしれない、どうして私自身が好きだといえるのだろう、それは兄の趣味であり朝日の美術雑誌の趣味であるかもしれないではないか。

借りてきた私ではないのだと思う。私は私が飢え死にしても誰に借りもないのだ。私は私が偉人になれなかったとしても誰に借りもないのだ。えらくなりたいと漠然と考えていた小学生の思考から抜け出ないまま生きてきたが、それは偉い人になるべきだというよくわからない自己暗示を無意識にかけてしまっていたのだが、果たして偉い人になるというのはいったい何に対する借りなのか。大偉人にならなくても小偉人になればいいのだし、小偉人とはおそらく電車で席を譲れる人のことだ。

借りてきた私ではないのだから、失敗しても仕方がない。1回しかない人生だと人が言う。だから悔いなく生きなければいけないという。それはいまは何の指針にもならぬ。それが逆に私を押しつぶしている。こうやって考えている時間が無駄だから動けという。しかし納得しないまま動いてもどこへもたどり着かない。納得できないのはいまもやもやしているからだ。もやもやしたまま何をやったって成功するわけがない。結局はいまの心がけをクリアにしてから動き出さなければいけない。いかにして心がけをクリアにするのか。どちらの方向へ動くのかを決めてしまったら、心がけがクリアになって、動き出せるのか。しかしどちらの方向に動くか決まらないから、心がクリアにならないのではないのか。蛇が自分の尾をかんでいる状態だ。八方塞り。考えられない人になりたい。1ヶ月だけ、考えなしに動く人になって、それから結果を考えたい。動いている間に、決定したときの思考プロセスを思い出したくない。どうせその決定の思考プロセスがクリアになることはありえないのだから。なぜなら思考プロセスがクリアにならないから動けないのであって、無理やり動くということは思考プロセスに無理を強いるということだからだ。記憶をなくしたい。考えられない人になりたい。そういう暗示をかけたい。私は私に対してまず無責任になりたい。私は私にほっといてといいたい。私は年齢とDNAにほっといてといいたい。私は理性にほっといてといいたい。私は「人生一回きり」にほっといてといいたい。私はすべての伝記を読んだ記憶と感動にほっといてといいたい。私はすべての自分の羨望にほっといてといいたい。私は夢という言葉にほっといてといいたい。わーたーシーはーぐーたーいーをーえーらーぶー 具体とは常に詰まらぬものだ。広がりを持たぬものだ。ごめん。5年ぐらいの具体しか考えたくない。でも、今すぐに。僕はもうパンクします。パンクしてしまいます。楽しい生活が描けない。楽しい人生が描けない。楽しい毎日が描けない。それはなぜ。選択があるからだ。選択に対する後悔があるからだ。そして選択に対する失敗に対する気付きがあるからだ。だめだ。楽しそうに生きているモデルケースが描けない。周りにいない。どんな人生も明るく見えない。輝いている人はすべて遠くぼくには実現不可能だ、といわれる。遠いものを、明るすぎるものを、憧れに過ぎないものを、ばかりみているからお前はだめなんだ、と言われる。光が欲しい。光が欲しい。光をくれ。光をくれ。光をくれ。光をくれ。

04/08/21