circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

恋でも愛でも友情でもなくものすごく薄い感情としてそこに「すき」があるのは、それが透きであり隙であり鋤であり梳きであり漉きであるからで、日本語学者でもなんでもないわたしですが、これらの中に音声的連関だけではなく意味的な連関もあってそういう言葉として生き残ってきているのだと思うわけで、いまわたしはそういうすきのありかたでいろんなひとのことをすきで、いちにちに2かいぐらいはかならずひとにすきって言っていると、なんだかわたしはとても質量の軽い人のように思えてきました。Hさんに、「Kさんは惚れっぽいですよね」といつもいわれるのだけれど、そうじゃないんだよ、惚れているんじゃないんですよ、わたしは、なんともいえずすきなんです。それがすこし高じるとだいすきになります。だけどそれはたいていが女の人にたいする感情なのがふしぎです。それはあたしが男だからではないと信じています。あたしが仮に女だったとしてもおなじすきで女の人をすきだとおもうのです。で、すきなひとのことをいまぽけーとかんがえていると30ぷんぐらいたっていておどろきました。すきなひとはたいてい古典文学みたいですけど御簾の向こう側に茫洋と存在していて、それは電話の向こう側だったり、インターネットの向こう側だったり、とにかくこういっては何ですが、老人たちは「最近はアメリカ文化で男女関係が云々」とか言っているのですが、たぶんこちら側では新たな「御簾」が電話やインターネットやその他のさまざまな形で、あたしとあたしのすきなひととをさえぎっていて、それがある種の想像的エロティシズムへとあたしを向かわせるのです。要するにストーキングなわけですけど。だって古典文学だってストーキングじゃないか。ようするに相手が嫌がれば駄目だし、嫌がらなければいいなとおもう、ただそれだけで、あたしはすきな女の人たちをかってに美化するのですが、そういうおとことしてのあたしの姿勢を嫌う女の友達がたくさんいて、「だから男っていやなんだ」と切れていらっしゃいます。「だまされてるよね」「かんちがいしてるよね」「きもいよね」ETC言われ放題です。あたしがなにをしたっていうんだ!むきゃー!とおもうのですが。さいきんおんなのひとがひとじゃなくて作品にみえてしかたありません。存在するだけで作品に見えてしまう。それもまたたいへんはかないもので、第二次性徴を迎える前の少年のような透明度なのかも知れず、やっぱり星の王子さまが星の王女さまでは駄目なように、女王「幼ごころの君」が男の王ではいけないと思う。男の王というものはどうしてもライオン的ルイ14世的存在になってしまう、あるいは、そうなるべきであり、あたしが心の中に抱きつづけている、あたしの男性としての生き方のひとつの憧れである、厩戸皇子も、常に少年期の美しい人であって、たとえ老いたとしても、本質的にはかない存在であるべきだ、と思うし、もう一人、武満徹という人も、やっぱりどこかに少年を遊ばせるroomのroomを残していた人なんじゃないかと思うのです。えっと、そういうわけであたしはこころのきれいなおんなのひとがすきです。そしてよのなかにたくさんこころのきれいなおんなのひとがいるのでこまってしまうのです。ほれっぽいんじゃないのです。