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暗い目をして誕生日を迎えました。
せめて、家族に顔を見せたくて。
山を降りて京都に帰りました。
藍色の天使がいまだうっとり歩き回っている鹿ケ谷。
誕生日は祝われるものでなく。
すべてのおめでとうをことわって、ベッドの中で。
閉じこもりながら、つながりたくて。
いちばんつながりたいひとはいつもつながらなくて。
小さな棘を踏んで絶叫して、わたしのこころはまた窓辺に。
絶とうとする。
ひとつの四半世紀を流された流木。
どこへ辿りつくこともなく。
生まれ変わる方法をずっとさがしながら、仕事を休んでみたり、入院してみたり、音楽の仕事を手伝ったり、「あたし」を主語にして生活したり、パステルを握ってみたり、
たどりついた結論は小さな喧嘩の結末に出現した。
評論家はやめろ。お前が何か作ろうとしないくせに。
まったくそのとおりだ、死のうとしている人間に、生きようとしている他人の批評ができるだろうかできはしない。まったく何様のつもりなんだあたしは。あたまばかりで本質をわかっていて、あるいはわかったつもりでいて、でもまったくなにも創造しようとしない。斜に構えて評論ばかりしている。その整合性や意外なリンクに喜んだりしている。創造主が人間界を見下ろすように。その人間界におれは生きていない。おれは常に天上から見下ろしていた。頭脳という場所から。おれにはつねにからだがなかった。からだでなにかをして、批評されるのがこわかった。じぶんに批評されるのが怖かった。じぶんの目が一番きびしいから、なにもすることができなかった。
自分の満足するものが最初からできてしまうならそれは満足ではなくて妥協だと思う。ソクーロフが「マザー、サン」をとるまでの辛くて長い道のりを考えてみる。
つねに新しく失敗し続けること。
うまいことまとめようとおもって、またこのこしゃくな左脳が回りだしてこまるんやけど、いまその左脳が語りかけてきた言葉はつまりこういうことやねんか。人生は成功するためにあるんやない。もちろん人生は失敗するためにあるんでもない。失敗の方法には、wrongな失敗とrightな失敗がある。だから、お前の人生の指針を
つねに新しく正しい失敗をしつづけること
にしろ、って。
同じ失敗はしないようにして、新しい失敗を恐れないこと。たぶんそういう風にしか生きることができないあたしなんだ。失敗しないことに固執して、どこにもいけないでうずくまって、栄養失調で死のうとしている。そして他人の失敗を指摘ばかりしていて。
あれ、こういう展開になるとは思わなかったんだけどな。気がつけばrationalな部分が走り出して、整合性を取ろうとする。でも、rationalな部分に任せると、あたしは死ぬしかないのだ。emotionalをさきに走らせないと、あたしは死ぬしかないのだ。rationalよりemotionalを一瞬だけ常にさきに走らせること。そしてつねに新しい失敗をしつづけること。いつまでも妥協しないで、一歩一歩あたらしく失敗を積み重ねていくこと。その失敗を責める自分に開き直って、「もうこの失敗をしなければええだけのことやん」と一喝して、また新しく危ない一歩を踏み出してはまた新しいこけ方をすること。
いろんなこけ方を覚えていくうちに、いろんな歩き方が知らないうちにたまっていく、ことを期待しつつ。つねに一歩一歩が新しい一歩、おもしろい一歩であるためには、いままでに知らないこけ方を恐れてはならないんだろう。
とまた、rationalなあたしが語り続けている。emotionのあたしはそれについていっているだろうか。
Non, jamais...