circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

西原さんからのとんでもない情報。エリセがついに動き始めているらしい。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=10360761&comment_count=0&comm_id=16320


生き延びる理由ができた。そんな受動的な生き方でいいのか分からないけれど。


あたしの天使のひとりが、偶然あの溝口イベントに行っていて、エリセを知らずにエリセ本人を見てきて、あたしが電話で、「やばいよやばいよそのひとは神様だったんだよ実は!あなたいますぐエルスール見なさい!(おすぎ口調)」といったんだけど、天使によると「本人が映画みたいな人だったよ、なんか、かっこいいという単純な言葉を使いたくないけれど、大きな人だった、素敵な人だった、なにかある感じっていう雰囲気がした」ってことだった。エリセさん、見てみたかった。(でもあたしはそのとき音楽のことしか考えられなくて、映画を見られる状況じゃなかった。もう一人の神様のほうでいっぱいいっぱいだった。音楽のほうの。)


生き延びよう。生き延びて、エリセをみて、そのときこそ、あたしは何かを撮ろう。あたしは、たぶんもう一人の神様を、きちんと撮ろう。今回はfixで、なんの映像でもなく、ただひたすらに神様が動いているその素材だけですばらしい映像作品なんだけれど、それはあたしが何かをしたからではなくて、あたしがやったことはデジタルビデオカメラを買ってきて、一つの場所に置いたというそれだけのことだった。もうすこし、なにかできるかもしれない。だけど、ジャームッシュが武満の送ってきた映画音楽に対して行った敗北宣言のように、「映像が音楽に負ける」ことは、わりと目に見えている。宮岡さんは「音楽家を映画に撮るのは無理」みたいなことをトークで話していたけれど、あれは絶対に言い訳だと思う。それはその音楽家に対する敗北宣言に過ぎなくて。ジャームッシュの件だと、ジャームッシュの格と武満の格が違ったということに過ぎないと思う。たとえば「アンナ・マグダレーナ・バッハの日記」で、レオンハルトスト=ユイは映像と音楽で殺し合いをせずに、むしろ止揚してるじゃないか。素材が天才的に強烈という意味では音楽家ではないけれど四季・ユートピアノなんて、あの人自体がキチガイ(絶賛のほめ言葉として)なのに、それをちゃんと映像に収めきっているじゃないか。だけど、止揚をおこなうためにはある正(撮られる対象としての)にたいして、同格の反(撮るあたしとしての)をぶつけないといけない。たぶん、あたしはまだまだ、あたしの神様に対して負け続けているし、たぶんそんな状態だと、撮らしてはくれないだろう。アンナ・マグダレーナ・バッハの日記のすごいところは、弾くところは弾かせる、そして弾かないところでは圧倒的に沈黙させるところにあったのだと思う。沈黙の存在として、すでにレオンハルトは「存在」であった。そういう意味で、いまDVDにとってあるけど見ていないひとつの作品を、早くみたいと思っている。佐々木さん監督、池辺さん主演(!ありえない。ダジャレは言わないのだろうか)のパラダイスオブパラダイス