circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

島本理生「リトル・バイ・リトル」
リトル・バイ・リトル (講談社文庫)
川内倫子の写真による表紙の透明感がそのまま乗り移ったような朝の空気のような文章。思考を思考として明示せずに文中に隠しながら(つまり「思った」を書かない)つづっていく言葉の流れがとてもみずみずしい。だけどこのひとは天才じゃない。背中の人とは違う。背中の人は多分ふつうのひとになると思う。島本さんはたぶんどんどんなにかを切り開いていくんだろうと思う。だけど、これは僕が求めているものじゃない。島本さんが「わたし」を主語にしているのは好きだ。だけど、ちょっと人物が多すぎる気がする。計算と作り物の匂いが微かにする。小説だからそれが当たり前なのだ。背中とインストールの人がおかしかっただけなのだ。人物は少しでいい、から、素敵な人が数人いて、その思考が思考としてではなく水みたいに入ってくるようなものが読みたいし、書きたいけれど、あたしは未だに、小説というものが何なのか分からない、物語をつくれない、キャラクターを設定できない、状況を設定できない、だから自分の身の回りの雑文しかかけないんだ、無能め。
島本理生「シルエット」
シルエット (講談社文庫)
物語の「つくりかた」としてはこちらのほうが初期だから下手だけれど、文章としては、最初の数ページが、文庫本版「インストール」あとがきの高橋源一郎言うところの「完璧」だった。その年齢でしかかけない、どこにも手を入れようがない。欠点がない。欠点があったとしてもそれがなくなるとそれ自体が崩れてしまう積み木のようなもの。雨。いいな、と思った。だけど、読んでいくにしたがって、「作られたお話」が現れだして、やっぱり小説とは作り物なのだな、と思ってしまう。何かしら無理な設定をしていかなくてはならないのか。あたしははやくジョイスやウルフを読むべきなのか。映画に感じ続けていた違和感を、タルコフスキーやエリセや佐々木昭一郎ソクーロフが壊してくれたように、小説に感じ続けているこの違和感を、誰か壊してくれないだろうか。なんというか、綿矢りさには、「それ」を感じたのだけれど。この水のようなものは、ある年齢までの時限なのだろうか。坂本真綾の「DIVE」を愛してやまないのだけれど、これも17、8歳の作られない声が好きだったし、感性がなんのフィルターもなく外に表されている感じがたまらなく好きだった。
DIVE
今、坂本さんの歌声にはそれを感じない。上手くなってしまった。綿矢さんが上手くなるかどうかは分からないけれど、「上手いという軸を超えて完璧」という構造が崩れて、「完璧はもうもろく崩れたけれど上手い」へ移行していくのか、「上手くないけど、それどころではなくすごい」という思春期とは違う完璧さへ移行してくれるのか、どうなのだろうか、と思う。
ようするにあたしは佐々木昭一郎タルコフスキーみたいなやり方で、詩ではなく小説を書きたいのだと思う。だけど、小説って何?
西尾維新クビキリサイクル
クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い (講談社ノベルス)
すごい。絵のtakeさん含め総合的にすごい。なんなんだこれは。違う世界を見せ付けられた気分。あまりにもあたしと方向性が違うし、あたしはこっちには初心者だから驚いているのかもしれないけれど、だけど、あまりにもクナギサトモがかわいすぎる。「うにー」て。ときどき敬語だし。萌えの最前線と言う感じ。2002年とは思えない。メイドとか3つ児でいるし。3つ児て。2002でこれはエッジだっただろうなとおもう、いまあたしがショックをうけているぐらいだから。クナギサ語にしばらくはまりそうだと思った。彼女が出てくるだけでよんでて幸せになれるのがせこい。キャラで責めるなんてせこい。もう。「うにー」て。「僕様ちゃん」て。せこい。クナギサトモに関しては「完璧な」キャラ作りだと思った。しかもクナギサちゃん、あんまり役に立たないところが笑える。無能っぽい「僕」が一番有能なのも笑える。なんだそれ。